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折伏をしない池田名誉会長

創価学会は会員に向かって「末法の仏道修行は唱題行と折伏行だ。そして末法の衆生を救えるのは折伏だけだ。間違った宗教や思想を破折しろ!」と号令をかけてきた。池田名誉会長も「創価学会は折伏の団体である」と常々公言してきた。
創価学会の会員(特に役職者)は営業成績のノルマを課せられる営業マンのように、折伏成果のノルマに追われる日々であるのは今でも同じだろう。
ところが、その創価学会の親分たる池田名誉会長は全く折伏をしていない。確かに「対話」と称して世界の著名人と対談はしているが、その内容は、相手をほめ上げて仲良くしているだけである。
創価学会によれば、相手の思想的間違いを厳しく責める事なく、相手の立場を認めて穏やかに対話をするのは摂受(しょうじゅ)であって折伏ではないそうである。
池田名誉会長の対談相手である世界の著名人は、その殆どが創価学会以外の他の宗教や思想の信奉者であるが、池田名誉会長はそれらの宗教・思想的間違いを破折する事もなく、ただ相手の機嫌をとっておだて上げて仲良くしているだけであるからそれは折伏ではなく摂受になるだろう。
もっと厳密に言えば、元来、仏教では、過度のお世辞は「正語(しょうご)」(正しい言葉、正しい話し方)ではないという教えがあるから、池田名誉会長の場合は摂受ですらなく、ただのおべんちゃらという事になるだろう。

また、池田名誉会長と対談した著名人の中で、その対談がきっかけで創価学会に入信したという話も聞かない。
つまり、折伏成果も上げていないという事だ。
これではいくら創価学会が「折伏しろ!」と学会員に号令を掛けても、親分が折伏をしないで摂受(厳密に言えばおべんちゃら)でお茶を濁しているようでは、よほどの盲信者や狂信者でない限り、多くの学会員はシラケるだけだろう。実際に、筆者が学会員だった頃、学会活動に出て来ない部員の家に家庭指導に行くと、「池田名誉会長や大幹部連中は号令を掛けるだけで、自分達は折伏していない」と言われた事がある。その部員曰く、だから馬鹿らしくて学会活動をしなくなったのだという。

確かに言われてみればその通りだ。会員に向かって「折伏しろ!」と号令を掛けるのなら、まずは親分が模範を示すべきだろう。そうしないとそのうち誰もついてこなくなるのではないか。

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「ナポレオン教」に宗旨変えか?

これまで硬い内容の記事が続いたので、この辺りで、肩の力を抜いて読める記事を書いておこう。

そこで今回は、創価学会とナポレオンの関係について述べたい。

このところ、創価学会では「ナポレオン」の文字をよく見かける。特にここ数年は「大ナポレオン展」を各地で開催しており、聖教新聞でも大々的に宣伝していたものだ。

なぜ「ナポレオン」なのか。「大日蓮展」なら判るが、ナポレオンと創価学会と何の関係があるのか。

恐らく「大ナポレオン展」には学会員が多数動員されていると思うが、学会員の中には喜んで見に行った者もいるのかも知れないが、「大ナポレオン展? 何のこっちゃ!」と思っている学会員もいる事だろう。
それほど、ナポレオンと創価学会は何の関係もないという事だ。
「日蓮本仏論」から「ナポレオン本仏論」に宗旨変えという訳でもないだろう。

要するに、池田大作名誉会長の「ナポレオンのような征服者・支配者になりたい」という願望の表われなのであろう。
この点にも、創価学会の本質がよく表わされていると思う。

信教の自由について

筆者は、釈尊の実際の言説でなければ仏教ではないというつもりはないし、大乗仏教は釈尊が説いた教えではないから仏教ではないというつもりもない。釈尊の理念を基盤として、その上に新たな思想として展開されてきたものであっても、それもまた仏教には違いないからである。それは仏教に限らず、他の様々な宗教・思想についても同じで、信教の自由なのであるから、どのような信仰をしようと、どのような思想を信じようと、それらの信仰や思想が個人の人生での杖となり生きる糧となるのであれば、それは構わないのである。

但し、周囲に迷惑を及ぼす事なく、社会に害悪を流さないという条件を守ればの話である。創価学会ではこの点が守られていないから問題なのだ。

また、創価学会も信教の自由を掲げてはいるが、創価学会の言う信教の自由とは、「創価学会で信心する事の自由」であって、「創価学会以外の信仰・思想を信じる自由」は含まれていないのであろう。

折伏行とは強引な布教法だったのか

創価学会が社会に与えた迷惑行為で最も大きなものは、やはり何と言っても「折伏行」になるだろう。
終戦後、創価学会を再建した戸田城聖第2代会長が号令を掛けた「折伏大行進」から始まり、悪質商法並みの過激で強引な布教によって教線を伸ばし、破竹の勢いで勢力を拡大してきた創価学会であるが、それによって世間を騒がし、社会から大きな批判を浴びせられてきたのは周知の事だ。
創価学会は「折伏行は宗祖日蓮大聖人の教えであり、今末法の時代は、唱題行と共に折伏行を実践しなければ成仏できないし、また、末法の衆生は機根が悪質だから折伏でなければ救えないのだ」と主張して強引な布教を正当化してきたのであるが、では、本来の仏教で説く折伏とはどのような教えであったのか。

そもそも「折伏」という考え方が出てくるのは大乗仏教からで、大乗経典の「勝鬘経(しょうまんきょう)」や「大日経(だいにちきょう)」を出典とする。
「折伏」は「摂受(しょうじゅ)」とセットになって説かれており、折伏が相手の間違いを厳しく責めて「破折屈伏(はしゃくくっぷく)」させることに対し、摂受は相手の間違いをいったん容認して、穏やかに説得しその間違いを正していくことをいう。釈尊以来の本来の仏教では、この摂受の化導法だったと言える。

大乗仏教においては、本来は折伏も摂受も共に衆生を化導する上で重要視されているが、日蓮は、末法時代の日本では摂受よりも折伏の方が適した布教法であると断定し、折伏一辺倒の布教を行じたのである。しかし、それはあくまでも日蓮個人の思い込みであって、「末法時代は折伏だけを行じるべし」という確かな根拠がある訳ではない。

しかも、日蓮は、法華経の『常不軽品(じょうふぎょうぼん)』に説かれてある常不軽菩薩をもって折伏の正しい行法例としているのであるが、そこには、常不軽菩薩が人々から誹謗中傷を受けながらも、そのような人々を軽んずる事なく礼拝してゆく修行法が説かれてある。
日蓮は、常不軽菩薩のように人々から誹謗中傷されて迫害を受けても、ひたすら正しい真理(正法)を求め、また理路整然と伝えていくことが真の折伏である事を説いているのであって、創価学会のような悪質商法並みの強引な布教をせよなどと説いている訳ではないのである。

この点においても、創価学会は仏教の本質からも外れているだけでなく、宗祖・日蓮の教えにも背いている事になるのである。



仏法は勝負する為と闘争する為にあるのか

「仏法は勝負なり!」「折伏闘争」「題目闘争」とは創価学会の有名なキャッチコピーである。また、聖教新聞等の機関紙を見れば「闘争」「戦い」という文字が並び、「闘争する事こそが仏法!」「戦い抜いて大勝利せよ!」「戦わざる者は去れ!」などと、信者の闘争心を煽り立てる文字が躍っている。そして更には敵対者に対する汚い罵詈雑言の数々が書き立てられている。
このような標語や機関紙の記事文にあるように、創価学会は実に阿修羅のような闘争的・攻撃的・戦闘的な宗教団体である。

創価学会の言う「仏法は勝負なり」というキャッチコピーは何を根拠にしているのかというと、日蓮の手紙(『御書』の中の『四条金吾殿御返事』)に書かれてある「夫(そ)れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」と、「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」などの文が依拠となっていると思われる。
創価学会としては宗祖と仰ぐ日蓮の言葉に拠っているのだと言うだろうが、では、そもそも仏法とは闘争するものなのか、勝負する為にあるのか。
この点について、釈尊の直説に最も近いとみなされている阿含経の中に次のような釈尊の言葉がある。

「勝てば他の怨みを受け、負ければ心安らかでない。故に勝負は共に捨てるべし」(増谷文雄氏の翻訳による)


これが仏教の基本思想である。この考え方は、その後仏教が様々に変遷していっても変わる事がなく、仏教の基本思想であり続けている。

釈尊の言葉にあるように、仏法とは勝負する為にあるのではないし、闘争する為にある訳でもない。
また、日蓮の言葉から「仏法は勝負なり」とか「闘争せよ!」という標語になるのは飛躍し過ぎだろうと思う。

創価学会の闘争本能丸出しの過激な攻撃性や罵詈雑言ぶりは、「仏法は勝負なり」という考え方から発しているのであろう。
しかし、それは本来の仏法ではない。創価学会は「我々は釈迦仏法ではなく、日蓮仏法だ」と言うかも知れないが、たとえ日蓮仏法であっても、その根底には仏教の基本思想を据えるべきだろう。
阿修羅のような「闘争」を前面に押し立てている創価学会は仏教ではなく、「阿修羅教」と名乗った方が良いのではないだろうか。
創価学会がいくら「反戦平和」を訴えても、「闘争せよ!」「戦え!」と闘争心を煽り立てているようでは、その実現は難しいのではないかと思う。

  

「謗法」は宇宙の法則か [2]

最近の創価学会は基本的には「謗法厳戒」の姿勢はそのまま残しているが、「真言亡国・禅天魔・念仏無間・律国賊」という「四箇格言」を見直す動きが出ているなど、謗法思想に関して若干の変化も見受けられる。

これは、例えば、近頃は町内会の祭りは昔のような宗教的意味合いが薄れ、ただの年中行事、あるいは親睦交流の意味合いに変化してきているとして、学会員が祭りへ参加する事を黙認するようになった流れなどを受けたものと思われる。
特に町内会の祭りへの参加は、地域友好活動の一環にさえなっているようだ。

要するに、「公明党の選挙票を得る為に地域友好活動をしろ」という事であり、その為には、町内会の祭りにも参加して良いという事なのであろう。
つまり、創価学会の都合で謗法の許容範囲を広げたという事なのだ。
これ1つを取ってみても、創価学会の都合でコロコロ変わるような謗法思想なるものは、宇宙の法則でもないし真理でもないという事が判るであろう。



「謗法」は宇宙の法則か [1]

「創価学会で信心しなければ謗法の罪で地獄に堕ちる」とは創価学会の十八番であり、創価学会が布教する時に使ってきたキャッチフレーズである。
筆者が学会員だった頃でも、神社の鳥居を潜っても「謗法だ!」、観光で寺社巡りをしても「謗法だ!」、町内会の祭りに参加しても「謗法だ!」、創価学会以外の宗教書や思想書を持っていても「謗法だ!」などという事を言われたものだ。
この「謗法」という言葉は実に便利な言葉であり、この一言で創価学会への疑問を抑えつけ、思考能力を失くしてしまうのに役立っていると言ってよいだろう。

では「謗法」とはそもそも何なのか。
「謗法」とは、「誹謗正法」の略で、正しい法を謗り、正しい法に背く事を言う。
そして、創価学会の言う謗法とは、日蓮仏法を信じない事であり、現代においては、日蓮仏法を最も正しく実践しているという創価学会に入信しない事であり、あるいは入信していても、他の宗教や思想と親しくする事であり、また、創価学会を批判する事なのだという。
更に、謗法を犯すと、宇宙の法則に合わなくなってしまい、不幸な人生になってしまうのだという。創価学会では「地獄に堕ちる」というのは、現実の人生で地獄のような不幸な生活になるという意味になる。
「だから幸福になりたければ、創価学会だけを信じて一生懸命学会活動しろ!」というのが創価学会の主張である。

そのように創価学会は「謗法」を永遠不滅の宇宙の法則であるかのように主張しているのであるが、しかし、謗法思想もまた元々仏教にはなかったものなのである。中国仏教においても謗法思想は特に強調されてはいなかったのであり、法華経と涅槃経が最も優れた経典だと主張していた天台智顗(てんだいちぎ)でさえも、「法華経を信じなければ謗法の罪で地獄に堕ちる」などとは言っていないのである。
謗法思想が起きたのは日本仏教からであり、特に強調したのが日蓮なのである。本来の仏教は他の宗教や思想に対して寛容な宗教であり、日蓮の思想は仏教の中では異端の部類になると言える。
創価学会の排他性・非寛容性・独善性は、この謗法思想が源流になっているのだろうし、カルト性もまたこの謗法思想から発しているのだろう。

いずれにしても、謗法とは元々の仏教にはなかった思想であり、宇宙の法則でも何でもないという事なのである。

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