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学会員のタイプ別分類 [5] 日蓮仏法は信じてるが、創価学会は信じてないタイプ

日蓮仏法は信じているが、創価学会は信じていないという学会員も少数派だが存在している。筆者の母がこのタイプだ。母は元々創価学会を好きではなかったが、父が入信したので、仕方なく一緒に入信したのだという。
創価学会と日蓮正宗が決裂した時も日蓮正宗側に行きたかったようだが、父が創価学会に残ったので、この時も仕方なく残ったのだという。
それでも昔は学会活動をしていた時もあったが、近頃は池田名誉会長を嫌っていて、その上学会内の人間関係にもうんざりしているらしく、殆ど会合にも出ていないようだ。
しかし日蓮仏法は信じているので、朝晩の勤行・唱題は欠かさない。その点、学会活動はするが勤行・唱題をしようとしない父とは正反対だ。
実家の近所に母と親しくしている老婦人が住んでいるが、その人は浄土真宗の信者で創価学会を嫌っていて、母に「どうして創価学会なんかに入ったんですか?」と聞くので、夫婦なので仕方なく一緒に入ったと言ったら、「ご主人が創価学会に入ったからといって、奥さんまで入る必要はないじゃないですか」と言われたそうだ。
家族と言えども考え方はそれぞれ違うのは当たり前だから、思想的に別々になってもそれも当たり前の事だ。却って家族だからといって同じ宗教や思想に合わせる方が不自然であるし無理があるというものだ。
母の場合はもう脱会するのは諦めているようだが、他の同じようなタイプの会員の場合は、これからまだ脱会する可能性があるという事になるだろう。


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学会員のタイプ別分類 [4] 信じてないのに付合いでついてゆくタイプ

信じてもいないのに付合いだけで創価学会についてゆくタイプというと「そんな奴おらんやろー」と漫才のツッコミが入りそうだが、筆者の父親がこのタイプになる。実家は日蓮宗の檀家だったが、父は折伏された時、「日蓮宗と日蓮正宗は兄弟みたいなものだろう」と気軽に考えてあっさり入信している(創価学会は当時、日蓮正宗の名前を前面に出し、「日蓮正宗創価学会」として折伏していた)。
ちなみに、宗教の世界では、いくつかの例外を除いて、近い関係にある宗教ほど仲が悪い場合が多いようだ。現在の創価学会と日蓮正宗の関係がその典型だが、当時は日蓮宗と日蓮正宗の仲が悪かった。
それはともかく、日蓮宗の檀家と同じように考えていた父親だが、入信した途端に「座談会だ」「選挙戦だ」「折伏戦の活動家大会だ」等々と矢継ぎ早に学会活動の号令を掛けてくる創価学会に「仕事が忙しいのにそんなのに出られるか!」と怒りだし、それからしばらくの間学会活動には一切出ていなかったそうだ。しかし、追い返しても断わっても懲りずに家庭指導にやってくるしつこさに諦めたのか、会合にボツボツと出るようになり、選挙の時はポスター貼りを手伝ったり、聖教新聞の配達もするようになり、一応活動家の仲間入りをするようになっていったようだ。
しかし創価学会の教義は信じていないらしく、勤行は母に言われないとしないようだし、勤行していても上の空で、よく母に注意されているのだという(笑)。
また、謗法思想も全く信じていないようで、まだ町内会の祭りへの参加を謗法だと言っていた頃から祭りに参加して神輿を担いだり、役員として神社に行って幟を立てる準備をしたりしていたそうだ。その際、母が「謗法になるから行かない方が良い」と引き留めても、「そんな事あるものか」と言っていたというから、全く信じていなかったようだ。
創価学会の教義を信じてもいないし、信仰心も特にない父親がボツボツとは言え、学会活動をしているのは単に付合いだけのようだ。
付合いだけで創価学会についてゆくというのは特殊なケースと思われるかも知れないが、職場で部下が上司から折伏された場合も、得意先から折伏された場合も、断わり切れずに、信じていないのに付合いで入信するというケースは意外に多いと思う。
その場合、あくまでも付合いだけでの入信だから、読みもしない聖教新聞と大白蓮華をセットで購読させられる他は、一切学会活動には関わらない者が多いようだ。付合いだけで学会活動をしている筆者の父親はそういう意味で特殊なケースとは言える。
また、このタイプは半信半疑タイプに似てはいるが、半信半疑ですらもなく、創価学会を全く信じていないという所が異なっている。
創価学会内における割合は小さいとは言え、このようなタイプの学会員も存在しており、創価学会の財務面を支えているのは確かだ。


学会員のタイプ別分類 [3] 半信半疑タイプ(ノラリクラリタイプ) 

簡単に言えば、学会活動を熱心にするでもなく、学会を辞めるでもなく、創価学会の中でノラリクラリと生きている学会員がこのタイプだ。基本的に創価学会を好きではなく、教義については「本当にそうなのかな?」と半信半疑である為、勤行はしたりしなかったり、あるいは題目三唱くらいにしており、会合への出席や学会活動への参加についても支部総会や記念座談会など特別な集会に、活動家が結集をかけて連れ出しに来た時だけ顔を出すといったタイプだ。創価学会では最も多いタイプだろう。全学会員の半分くらいはこのタイプではないかと思う。
本当は脱会したいのだが、学会を辞めると何か悪い事が起きるのではないかと恐れて、あるいはもっと現実的に学会員から村八分の目に遭わされたり嫌がらせを受けたりするのではないかと恐れてなかなか脱会できないでいる会員が多いようだ。

ちなみに、筆者は創価学会の中でノラリクラリと生きるという事ができない。やるならやる、やらないなら学会を辞めるというようにハッキリさせないと気分が落ち着かないし、何よりも居心地が悪くて仕方がない。もしノラリクラリタイプになるなら、最初からノラリクラリタイプになっていないとだめだ。いったん活動家になってしまうと、途中で会合に出なくなったり活動をしなくなったりした時、幹部や活動家仲間が押し掛けてくるから、それがうっとうしくてたまらないからだ。

いずれにしても、このタイプは創価学会からすれば戦力にはならないが、聖教新聞や大白蓮華などの機関紙・誌を購読させたり、広布基金を納めさせたりして収益を上げるという目的からすればそれなりに存在価値のある会員なのだろう。

学会員のタイプ別分類 [2] 好きでもないのに使命感でついてゆくタイプ

創価学会の活動家は皆学会を好きな者ばかりだという訳ではない。創価学会を別に好きではないが、よく判らないままに、あるいは何となく使命感を抱いて学会活動をしている者も少なからず存在している。
このタイプに多いのが、親や祖父母の代から学会員だという2世、3世の会員だ。筆者もかつてはこのタイプだった。筆者の場合、父親が母方の伯父に折伏され、それで一家全員学会に入信させられ、筆者もいつの間にか学会員になっていた。
両親は特に熱心な学会員という訳ではなかったが、幹部に頼まれ、時々自宅でブロック座談会や協議会などの会合を開いていたし、中学・高校の頃は未来部担当の男子部員がよく家庭訪問に来たり、座談会などの会合に連れて行かれたりしていたので、そういう創価学会の雰囲気の中で育ってきた為、それを当たり前のように思っていたものであった。
その為、このタイプの会員は、「創価学会は宗教界の王者だと言ってるが、多分そうなのだろう」とか「池田名誉会長は世界で1番偉い人物だと言ってるが、多分そうなのだろう」といった具合に、よく判らないがそれを当たり前のように思ってしまう者が多い。
このタイプの特徴は不安定な点にある。2世、3世でも創価学会を大好きだという者は生涯学会活動を続けてゆくと思われるが、特に好きでもないのに学会員にさせられた者は、そのうち学会に対して矛盾や疑問を抱くようになるからだ。その場合、学会活動をしたりしなかったりという、いわゆるノラリクラリタイプとなるか、筆者のように完全に学会を辞めてしまうか、脱会はしないが、一切学会活動をしなくなるかの3種類に分かれるだろう。
今後創価学会は2世、3世、4世、5世というように、本人が知らぬ間に入信させられていたという会員が増えるだろうから、不安定要素の会員の割合も大きくなってゆくだろう。そういう意味で、鉄の団結を誇る組織力は今後低下してゆくのは必定と言える。

理屈抜きに創価学会を好きなタイプ 実例 [2]

理屈抜きに創価学会を好きなタイプの実例としてもう1人紹介しておこう。
以前にもこのブログで書いた事があるY指導員。関わりが深い筆者の実家の話によれば、長い間熱心に学会活動に励んでいるのに、その一家にはずっと不幸が続いているのだという。まず夫がアルコール中毒が原因で早死にしている。それから間もなくして次男が原因不明の病気で20代で若死にしている。その後長男が結婚し子供にも恵まれたのだが、お嫁さんが育児ノイローゼになって自殺してしまったという。また、Y指導員は身体障害者の甥を引き取って一緒に暮らしていたそうだが、その甥も少し前に早死にしてしまったという。
このようにまるで創価学会から呪いを掛けられているかのように身内に不幸が続くY指導員なのだが、創価学会の信心を疑う事もなく、変わりなく熱心に学会活動に励んでいるそうだ。
この場合も、学会活動に熱心に取り組んでいるのに功徳もなく不幸ばかり続く人生では、普通なら創価学会の信心を捨ててしまうところだろう。よほど創価学会を好きでなければ学会活動は続けられないだろう。良い事があってもなくても学会活動自体が好きだから続けられるのだ。創価学会を理屈抜きに好きになれない者には無理な事である。ここまで創価学会を好きになるには盲信者・狂信者にならなければできないだろう。物事を冷静に論理的に考える者にとっては無理である。
創価学会を理屈抜きに好きなY指導員の事だから終生学会活動を続けていくだろう。極端な言い方になるかも知れないが、T地区部長やY指導員のようなタイプの学会員なら、創価学会がオウム真理教のような凶悪犯罪を起こしても、それでも創価学会を信じてどこまでも付いてゆくだろう。そして、このタイプの学会員がいる限り創価学会は安泰だろう。

理屈抜きに創価学会を好きなタイプ 実例 [1]

理屈抜きに創価学会を好きなタイプとして、筆者の知り合いのT地区部長を例に引いておこう。T地区部長は筆者が学会員だった頃の地区部長であるが、「池田名誉会長命」あるいは「創価学会バカ」と言えるほど名誉会長と創価学会に心酔している学会員だった。
筆者が脱会後しばらくしてT地区部長と顔を会わせた事があったが、その時T地区部長は「創価学会にまた戻ってこいよ。学会活動は楽しいぞ」と言っていたものだ。学会活動が楽しいと思える者はよほど創価学会が好きなタイプだが、このT地区部長、幹部会では折伏の成果や選挙でのF票獲得の成果について大幹部からよく吊るし上げられていたものだった。それでもT地区部長にとってはそれは楽しくて仕方ない事なのだろう。そういう意味でもT地区部長は創価学会向きの人間だと言える。
しかし、学会活動が楽しくて仕方ないと言っていても、T地区部長には信心の功徳らしいものが全く見受けられなかった。
T地区部長は婦人服販売の自営業をしていたのだが、経営が破綻してしまい、多額の借金を背負っていたようだ。本人から直接は聞いていないが、他の学会活動家がそういう話をしているのを聞いた事がある。だが、借金を背負っているのに仕事よりも学会活動にのめり込み、借金は増えるばかりのようであった。
広布基金の時も、「自分なりに精一杯の額を御供養しろよ」と我々男子部の活動家に言っていたが、そう言った手前もある為、T地区部長はかなり無理をして広布基金を納めていたようだ。その頃、自転車に乗っていた自分の子供が車にはねられる事故にも遭っている。それでも「このくらいのケガで済んだのだから、これは功徳だ」と言っていたものだ。
しかしいくら学会活動に励んでも題目唱えても借金は増えるばかりのようで、これも他の活動家から聞いたのだが、同じ学会員からも借金していて、それを返せずトラブルにもなっているという事だった。それでT地区部長は本部幹部や圏幹部などの大幹部に借金についての指導を度々受けていたようだ。
大幹部がこのような借金についての相談を受けた場合、借金返済の優遇措置を取れるよう公明党議員に依頼をする幹部も中にはいるのかも知れないが(筆者は実際には聞いた事はないが)、殆どの幹部は「もっと題目唱えろ」とか「もっと熱心に学会活動に打ち込め」といったいつもの決まり文句を言って適当にあしらっている場合が多いようだ。T地区部長はその後も長い間同じような状態が続いていたようだから、幹部から適当にあしらわれていたのだろう。
普通の感覚の持ち主なら、T地区部長のように熱心に学会活動に没頭しているのに仕事が破綻し、借金が増えるばかり、しかも同じ学会員ともトラブルになり、その上自分の子供が交通事故にまで遭ってしまうという状況が続けば、創価学会の信心ではだめだと気づくはずだ。というよりもそれ以前に、借金してるのに仕事よりも学会活動を優先させるというのが常識外れだと判るはずだ。
T地区部長も他の活動家に「にっちもさっちも行かない」と愚痴をこぼしていたそうだが、しかしT地区部長にとって、どんなに借金しようと状況が悪くなろうと、創価学会の信心を捨てる事は考えられないようだ。それほど創価学会が大好きな人間であったという事だ。
このT地区部長を見て、「素晴らしい信仰心だ」と絶賛する人もいれば「ただのバカだろ」と呆れる人もいる事だろう。受取り方は人それぞれかも知れない。
今は子供も大きくなって育児費からも解放され、借金返済も楽になってきているのだろうし、それをまた「これも功徳だ」と思っているのだろうし、今も変わらず学会活動を熱心に続けているのだろうと思う。
T地区部長なら間違いなく生涯不退転の決意で学会活動を続けてゆくだろうと思う。
創価学会はよく会員に「愚直の信心たれ」と言っているが、T地区部長は「愚直の信心」の見本と言える。それだけに、創価学会にとってはこれほど扱いやすいカモはいないだろう。

学会員のタイプ別分類 [1] 理屈抜きに創価学会を好きなタイプ

一口に学会員といってもその内実はさまざまだ。熱心な会員もいれば創価学会を嫌っている名前だけの会員もいる。そこで今回から、学会員の分類をタイプ別に書いていきたいと思う。
熱心な学会員の中には、創価学会の教義を理論的に納得し、創価学会の思想が最高だと信じて入信している会員もいるのかも知れないが、そういうタイプは少数派だ。熱心な活動家の中でも、折伏にしても選挙での票集めにしても、創価学会の組織拡大活動の実質的な原動力となり中心となり核となっているのは、理屈抜きに創価学会を好きだというタイプだ。このタイプは実際の所、創価学会の教義や思想などはよく判っていない者が多い。教義はよく判らないが、とにかく創価学会が好きで好きでたまらないという者がこのタイプだ。更に言えば、創価学会を好きだというよりも池田名誉会長個人を好きだという者が多い。中でも男子部や婦人部にこのタイプは顕著に見られる。筆者が学会員だった頃で、創価学会と日蓮正宗が対立するようになった時、ある地区リーダーなどは「俺には創価学会が正しいかどうかなどは関係ない。俺は創価学会が好きだから学会で信心してるんだ」と言っていたものだし、また、「学会活動が趣味だ」という男子部員の活動家もいた。学会活動を趣味だとは、理屈抜きに学会が好きでなければ言えないだろう。
やはり信仰にも相性というものがあり、各個人によってそれぞれの宗教や信仰が合う合わないという事はあるのだろうと思う。例えば、創価学会と仲が良い芸能人のア○ネス・チ○ンだが、いくら創価学会と仲が良くても、カトリックの信仰を捨てて創価学会に入信しようとは思ってないようだ。それはア○ネス・チ○ンはカトリックと相性が合うからなのだろう。 
創価学会を理屈抜きに好きだという学会員も創価学会と相性が合うのだろう。相性が合わなければあれだけ好きにはなれない。筆者も学会員だった頃、無理して創価学会を好きになろうと思っていた事があったが、理屈抜きに好きになるというところまでいけなかった。どうしても相性が合わなかったようだ。どの宗教や信仰にしても、最終的には教義や思想面についてよりも相性が合うか合わないか、好きか嫌いかという事になるのだろうと思う。テロ事件を起こしたオウム真理教にしても、名前を変えたとは言え、今でも信じてついて行ってる信者がいるし、霊感商法で有名な統一教会にしても、同様に熱心に信じている信者がいる。それはやはり相性が合うという事なのだろう。
しかし、創価学会と相性が合うという学会員は学会員全体で見るとそんなに数多くいる訳ではない。全学会員の中でも3割程度ではないかと思う。しかしこの3割程度の理屈抜きに学会が好きでたまらないという会員によって創価学会は支えられていると言ってよい。最新のアリの研究では、働きアリのうち実際に働いているのは3割程度だという事が判ってきているそうだが、それでアリ社会は成り立っているのだから、創価学会も同じように、3割程度の創価学会が大好きだという熱心な学会員によって成立しているとも言える。創価学会を別に好きでもない、あるいは嫌いだという会員は3割程度の働きアリのような学会員に任せておけばいいだろう。理屈抜きに創価学会を好きだという学会員は何があっても創価学会を辞める事もなく、生涯学会活動を続ける者が殆どだから、このような者に任せておけばいいのだ。また、このようなタイプの会員でなければ一生学会活動を続ける事もできないだろう。
 

「舎衛の三億」理論で仏国土は実現できるか?

筆者が創価学会を脱会する少し前頃、創価学会内では「今や創価学会の勢力は「舎衛の三億」の状態にまでなっている。それなら広宣流布ももうすぐ達成できるじゃないか!」というムードが流れていて、活動家の学会員は浮かれていたものである。
「舎衛の三億」というのは、元々はインドの仏教者であった龍樹(ナーガールジュナ)(西暦150年~250年頃)が、著書『大智度論』(偽作という説もあるが)に書いた言葉がその由来となっている。
舎衛とは舎衛城(舎衛国)の事で、古代インドの中心的な大商業都市であり、釈尊もそこで度々説法をしていたのであるが、その釈尊が二十五年も居住した舎衛城においてすら、実際に釈迦仏を眼で見た者は全体の三分の一しかいなくて、更に三分の一は仏のいる事を聞いたが見た事はなく、残りの三分の一の「三億」に至っては、見た事も聞いた事もなかったという。これが「舎衛の三億」という事である。
 この故事は、仏を実際に見るのも、仏の説法を直に聴くのもいかに難しいかという事の譬えとして使われているのだが、創価学会は例によって例の如く、この龍樹の言葉を学会流に拡大解釈し、舎衛の三億の故事にちなんで「日本の総人口の三分の一が創価学会に入信し、更に、入信はしないが公明党を支持する人々が次の三分の一となり、後の三分の一は反対であったとしても、事実上の広宣流布達成となる」などと勝手な解釈をするようになったのだ。
そこで、創価学会が勢力を拡大し、松下幸之助氏などのような学会を支持する外部の著名人も増え、また、部外者の公明党支持者も増えてきた事から、「これだけ学会の勢力が社会で大きな存在となっているのだから、舎衛の三億の方程式に当てはめると、もう広宣流布達成も間近じゃないか」という事になったらしいのだ。それで熱心な学会員達は「もうすぐ広宣流布が達成できる!」と浮かれはしゃいでいたのである。
それは1つには、池田名誉会長がトップの座にいる間に何としても広宣流布を達成しておきたいという願望もあったのだろうし、一般の会員としても、自分達が生きている間に広宣流布を実現して、その栄光を受けたいという思いがあったのだろう。
しかし、舎衛の三億理論で広宣流布を達成した事にしても、それで終わりではない。選挙の場合も、自分が支持した立候補者が当選して「良かった、良かった」で終わりではなく、選んだ候補者が良い政治をしてくれなければ当選しても意味がない。
広宣流布も「広布達成できた! 万歳!」で終わりではなく、仏国土=理想社会を実現できなければ意味がない。
創価学会が舎衛の三億理論で「広布達成間近だ!」と浮かれていた頃、仏国土と呼べるほど世の中良くなっていただろうか? あるいは現在でも、日蓮正宗と対立する以前に比べると会員数が減っているとは言え、「犬も歩けば学会員に当たる」と言えるほど学会員が溢れているこの日本社会が、理想の社会と呼べるような状態になっているだろうか? 
広宣流布は達成したが、理想社会には程遠いというのでは意味ないだろ。浮かれてる場合じゃないだろう。


法華の慢は許されない

久しぶりに思想面・教学面の批評を書いておきたい。
創価学会がよく使う言葉に「法華の慢は許される」というものがある。仏法では慢心を戒めているが、法華経は最高の法なのだから、法華経信仰者の慢心は許されるのだという論法であり、正しい慢心なのだからドンドン慢心して良いのだという主張なのである。
しかし、その根拠となっている文証は何かというと、明確な文証がない。日蓮の言葉にも、法華経にも「法華の慢は許される」という明確な言葉はない。例によって「仏法は勝負なり」というキャッチフレーズと同様、創価学会の拡大解釈による創価学会の造語であり、創価学会用語でしかないのである。
創価学会では「法華の慢は許される」という言葉の根拠として、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「能(よ)く是(こ)の経典を受持すること有らん者も亦復(ま)た是(かく)の如く、一切衆生の中に於(お)いて、亦(ま)た為(こ)れ第一なり」と「一切の諸の経法の中に於いて、最も為れ第一なり。(中略)諸経の中の王なり」の文を文証として引き、更に日蓮の言葉として、「現に勝(すぐ)れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか」と「問うて曰く自讃は如何、答えて曰く喜び身に余るが故に堪え難くして自讃するなり」という文を文証として掲げているが、これらの文章は、要するに「法華経は最高に勝れた法なのだから、その法華経を受持している者も勝れているのだ」「勝れた法を受持した喜びのあまりに自讃するのだ」と言っているに過ぎないのであり、これは謂わば状況証拠のようなものであって、「法華の慢は許される」という事への明確な根拠にも文証にもなっていない。
そもそも、法華経が最高に勝れた法だという前提は、創価学会や法華経系の教団が主張しているだけであって、仏教学の面においても歴史的に見ても認定されているものではないし、仏教界全体としても認められているものではない。「法華経が最高の法だ」という前提そのものがそもそもから前提になっていないのである。そのようなものを「最高に勝れた法だから、この法を受持すれば慢心を起こしてもそれは正しい慢心なのだから許されるのだ」という論理は論理として成り立たないのは言うまでもない。
「法華経こそ最高の法だ」と勝手に言ってる者が慢心を起こして許される訳もない。その論理は創価学会、あるいは法華経系の教団の内部では通用しても、外部に対しては通じる論理ではない。
いずれにしても、創価学会の傲慢さと独善性は、この「法華の慢は許される」という言葉が基になっているのだろう。いかにも「我々は何をやっても正しいから許されるのだ」とうそぶく創価学会らしい理屈付けではあるだろう。



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