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社会にのさばる創価学会の今後

「創価学会のようなまともではない宗教がよくあんな巨大組織になれて、しかも大きな顔をして我が物顔にのさばっていられるものだな」とは誰しも思う所だろう。それに対して創価学会は「それは我々が正しい宗教だからだ」とか「創価学会が正義である証拠だ」などと自慢する事だろう。しかし、別に正しくなくても巨大組織にはなれるし、「憎まれっ子、世にはばかる」と言われるように社会にのさばっていられるものだ。
戦後、創価学会が急激な勢力拡大ができたのは、1つには強引な布教により、もう1つはあからさまな現世利益の宣伝が物欲中心主義とでも言える高度経済成長期の時流に便乗できたからであるし、現在も社会の中でのさばっていられるのも、政財界にとっては創価学会と組む事に利益があるからである。別に創価学会が正しいからではない。
何しろ自民党にとって創価学会は集票力のある組織であるから、内心では胡散臭い宗教だと思っていても、票欲しさに手を組んで頼りにせざるを得ないし、財界にとっても創価学会は今や上得意先であるから、信じてもいないのに心にもないお世辞でも言って仲良くしているのである。利益になるなら憎まれっ子でも世にはばかる事はできるのだ。
しかしそのような社会は歪みが出ざるを得ない。例えば新聞社やメディアにとっては創価学会は大スポンサーであるから、創価学会絡みの事件が起きても創価学会の名前を表に出さない、報道しないという歪みがすでに出ている。まさしく創価学会に支配された社会が現出されつつある現状にあると言える。
とは言え、いくら外部の政財界と協力関係を築いているといっても、創価学会本体の基礎部分が盤石でなければやがて衰退する運命となる。かつては右肩上がりで信者が増え続けた創価学会だが、これからは減少してゆくだろう。今時、創価学会が宣伝する現世利益に釣られて入信する者はいない。いるとしても稀有な存在であり、新入信者の増加は見込めないだろう。
また、頼みの綱の学会2世、3世、4世など信心の継承者も学会への依存が希薄になり、離脱者が増えてゆく事だろう。
このように創価学会を支える組織の基礎部分が弱体化する事によって創価学会は衰退への途を辿る事になる。
創価学会と酷似している北朝鮮では先日権力の世襲継承が行なわれた。創価学会でも名誉会長の年齢を考えると、来年辺りは権力の世襲継承が行なわれそうだ。カリスマなき後の創価学会が今後どのようにして信者の求心力を保持してゆくか見ものである。


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自分達の都合で使い分ける創価学会の功徳論

功徳の体験では「事業で成功した」とか「病気が治った」とか「受験で合格した」とか目先の現世利益を強調している創価学会だが、学会の教学によると、そのような現世利益は「相対的幸福」といって、物質的・経済的豊かさ、社会的な地位・名誉など、外界や周囲の状況に依存している幸福感であって、周囲の状況が変わるといつ崩壊するか判らないものであるから真の幸福ではないとなっている。そして、周囲の環境や状況に左右されず、生きている事自体が楽しいというような、壊れる事のない境涯である「絶対的幸福」こそが究極的に目指すべき真の幸福なのであり、真の功徳なのだとなっている。
創価学会によれば、この「絶対的幸福」は戸田城聖2代目会長から特に強調されるようになったそうであるが、しかし、戸田会長はその一方で、「この本尊に祈ればお金が儲かる」「病気が治る」「何でも願いが叶う」などと露骨な現世利益を大々的に宣伝していたものである。「お金が儲かる」「病気が治る」などという現世利益は相対的幸福である。絶対的幸福を説きながら相対的幸福も大々的に宣伝するという矛盾を行なっていた事になる。
要するに、学会員の生活上に何らかの現世利益的な現象が顕われた時は「それは創価学会の信心のおかげだ」と恩を売りつけ、何も現証が現われなかったり、悪い事ばかりが続いている時は「環境に左右されない絶対的幸福こそ最高の功徳だ」と言ってごまかしているのだろう。その為に「相対的幸福」と「絶対的幸福」を使い分けているのだろう。
ちなみに、海外から受賞した名誉称号をいつも聖教新聞等で自慢している池田名誉会長は「絶対的幸福」ではなく、いつ壊れるか判らない「相対的幸福」を目指しているようだ。創価学会の親分が地位や財産や権力や名誉など「相対的幸福」を目指していながら、会員に「環境や状況に左右されない「絶対的幸福」を目指すべきだ」と説いても説得力がない。


創価学会 = 地獄の宗教

様々な事件や問題を起こし、家庭を壊し人間関係を壊し人生を壊し続けている創価学会。仏教を名乗ってはいるが、この世に仏国土ならぬ地獄の世界を現出せしめるものが創価学会である。もしもあの世に地獄があり、その地獄にも宗教があるとすれば、この創価学会のような宗教があるのだろう。創価学会こそは「地獄の宗教」として相応しいと言える。

カルトの条件を満たしている創価学会

今や政治・経済・文化・芸能などあらゆる分野に根を張り、社会の中に溶け込んでいるかのように見える創価学会だが、その本質はまぎれもなくカルトであると言ってよい。盛んに外部の文化人の機嫌を窺い仲良くなる事で、創価学会が世間から広く受け入れられているかのような印象を与えてカルト性を隠す事に躍起のようだが、海外ではフランスを始めとして複数の国からカルト指定を受けている。そのカルト性は内部から見れば一目瞭然で、熱狂的雰囲気によって信者を盲信・狂信させる手法や、池田名誉会長を神格化し絶対的存在として個人崇拝させ、「師の恩に報いよ」とか「師の恩を忘れる者は犬畜生以下だ」などと言っては信者に恩を売りつけて盲従させるやり方、「創価学会の組織を離れると不幸になり、地獄のような悲惨な人生になる」と吹き込み、信者が創価学会から離れないように脅している実態など、また、折伏の場では、逃げられないように1人を数人で取り囲み、長時間勧誘を続けるなどなど、改めて詳細に解説する必要もないほど、創価学会のカルトぶりは広く知れ渡っており、カルトの条件を充分に満たしていると言えよう。
その恩着せがましさ厚かましさ押しつけがましさはカルトという言葉を使わなくても、悪質商法と呼んでもいいだろう。

創価学会ではよく「法華経の為に命を捨てよ」という言い方をする。法華経とは創価学会の事で、要するに創価学会の為に命を捨てる覚悟で名誉会長や学会に尽くせという事だ。洗脳されている熱心な学会員は創価学会に尽くす事で幸福感を得ているのかも知れないが、熱心な学会員こそ却って地獄のような悲惨な人生にはまってしまっていると言えよう。
創価学会を擁護している者の中には、オウム真理教のような極端な凶悪性がないから創価学会をそんなに危険視する必要はないと言っている者がいるが、「法華の慢は許される」という論理でその独善性と排他性と攻撃性と傲慢さを正当化している創価学会の思想には、極論すれば、創価学会で信心していれば犯罪を犯しても人を殺しても許されるという、オウム真理教に匹敵する危険思想が潜んでいると言える。そこが創価学会のカルトたる所以なのである。

なお、創価学会のカルト性については、下記のサイトも参考にされるとよいだろう。

http://senmon.fateback.com/soukagakkai/shukyou/cult_asami01.html


人間革命 = 面の皮が厚くなる

創価学会は信心の目的として「人間革命」を掲げているが、「人間革命」を一般的な宗教が目指す「人間形成」とか「人格向上」という意味に受け取るならば、人間革命している学会員はあまり見受けられない。大幹部を見ても、対立者に口汚い罵詈雑言を吐き、平気で嘘をつくなど傲慢不遜さが目立ち、とても人間革命しているようには見えない。尤も、創価学会の言う「人間革命」とは、面の皮の厚い神経の図太い人間になれという意味であるようだから、そういう意味では確かに人間革命している学会員は多いようだ。しかし、そのような人間は学会内でしか通用しないだろう。

創価学会 = 腐ったリンゴ

近頃はどうか判らないが、昔は学会員が折伏する時、「リンゴの話」をよく使っていたものだ。
相手がなかなか入信しない時、「リンゴは甘いか酸っぱいか食べてみないとその味は判らない。創価学会の信心も、功徳があるかどうか入信してみないと判らない。だからとにかく入信して我々と一緒に信心してみようじゃないか」と言って相手に入信を迫るやり方である。しかし、腐ったリンゴを食べてしまうと腹をこわしてしまう。同じように腐った宗教に入ってしまうととんだ目に遇わされてしまうものだ。創価学会の実態は腐ったリンゴなのだから、「甘いか酸っぱいかちょっとかじってみよう」と気軽に入ってしまうと、えらい目に遇わされ、脱け出したくてもなかなか抜けられないという事態になってしまうだろう。



学会員は最高に幸福か

先頃、ブータン国王夫妻が来日し話題になっていたが、その際、ブータンが人の幸福度を客観的に指数化する「GNH(国民総幸福度)」を提唱している国であり、ブータンではGNHが97%に上り、殆どのブータン国民が幸福だと思っている「世界一幸福な国」という事についても話題になっていたものだ。
ブータンは経済的には貧しい国であるが、経済的豊かさに拠らない精神的幸福感の高さが、経済的豊かさを享受していても心が満たされていない日本人にとって、憧れの国である事が今回のブータン国王夫妻へのフィーバーぶりとなって表われたのだろうと思う。それはそれで日本人の現在の生き方を顧みるという意義においては良い事ではあるのだろう。確かに、国民総生産(GNP)で示されるような、金銭的・物質的豊かさを目指すのではなく、精神的な豊かさ、つまり心の幸福を目指すべきだとするブータンの考え方は理想社会の一つのモデルとはなり得るだろう。
そのように幸福度を客観的な尺度で表わすというのは画期的とは言えるのだが、ただ、客観的に指数化する事ができる経済指数(GNP)と違って、幸福感というのは各個人の主観的なものであるだけに、「幸福だ」と答えているブータン国民が全て本心からそう言っているのか疑問でもあるし、客観的に指数化できるのか疑問が残ると思う。
とは言え、ブータン人の生活ぶりを紹介していたテレビ番組を見る限りにおいては、あくせくしないスローライフとも言えるのどかな生き方は、時間に追われてあくせく生きている日本人よりも幸福なのかも知れない。
それに対して「この妙法こそ最高の功徳があり、最高の幸福境涯になれる」と豪語している創価学会ではどれほどの会員が「創価学会で信心できて最高に幸福だ」と思っているだろうか。3割程度の熱心な学会員はそう思っているのかも知れないが、「学会に在籍している事が不幸だ」と思っている学会員も多い事だろう。
ちなみに、「世界一幸福な国」の国民であるブータン国民が学会員の生活ぶりを見たらどう思うだろうか。創価学会は勝ち負けにこだわり、「闘争こそ幸福の境涯」だなどと言っているが、学会員が学会活動での成果獲得に追われてこせこせ生きている姿を見たら「まるで地獄のような生活だな」とか「あんな生き方は不幸だな」としか思わないだろう。こせこせ生きている日本人の中でも学会員は特にこせこせ生きている部類になるからだ。
ブータン国民と学会員とどちらが幸福か比較したら、答は明らかだ。

数にこだわる成果主義の創価学会

とにかく創価学会という宗教は数にこだわる所だ。活動家の学会員は折伏成果数に聖教新聞の啓蒙成果数(販売拡大成果数)、会合への参加者成果数、公明党支援の選挙戦ではF票(部外者の公明党支持者票)獲得数などなど、組織拡大の為のノルマを課せられ、成果を競わされている。唱題行についてさえも、「100万遍の題目を目指そう!」と、一定時間唱題したら塗り絵のようにマス目を塗りつぶしてゆく「題目表」なるものを渡される。これほど数字にこだわる宗教は他にないのではないかと思われる。しかし考えてみれば、創価学会の実態は宗教の名を騙った営利企業なのだから、組織拡大の為の成果数にこだわるのは当然ではあるだろう。
以前、聖教新聞に「創価学会は断じて成果主義ではない」と書いていた事があったが、創価学会はまぎれもなく成果主義である。もう1度言うが、創価学会は宗教ではなく営利企業なのだからそれが当然だからだ。
例えば、男子部の会合では、本部幹部などが指導と称して「折伏の成果を上げてない者はこういう場所に出てくるのもおこがましい」とか、「折伏の成果を上げもせずにただ真面目に生きてるだけではどうしようもない」などと嫌みを言ったり真面目に生きている者を侮蔑するような発言をしていたものだ。
要するに創価学会では、一般的に宗教が説いている「清く正しい生き方」をしている者よりも、少々世間的に問題を起こすような人間であっても、折伏の成果や選挙でのF票獲得など、組織拡大の為の成果を上げている者が称賛されるのである。
それは創価学会の実態が宗教ではなく営利企業だからだ。

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Author:時空無限
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