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自ら考えないことの悪

2月20日付聖教新聞の「生活ワイド」面に「考える力を育もう」という大見出しの記事が掲載されていた。
自分の頭で考えない信者を養成している創価学会が「考える力を育もう」とは笑わせてくれるものだ。
聖教新聞には創価学会や信心とは関係のない記事もあり、「生活ワイド」面もその1つで、「考える力を育もう」という記事は子供の教育について教育学者にインタビューした記事なのだが、信心とは無関係の記事とは言え、その大見出しには笑える。
そう言えば、2月22日付読売新聞の「時の余白に」という編集委員によるコーナーに「自分の頭で考えてくれ」という大見出しの記事が掲載されていた。ナチスの迫害を受けてアメリカに亡命したユダヤ人の政治哲学者ハンナ・アーレントがユダヤ人大虐殺の責任者だったアイヒマンについて論考した文章を引用している記事なのだが、その中で、アーレントの重要な論点が「自ら考えないことの悪」にあると述べている。
アイヒマンは組織の歯車として何も考えないで命令通りに仕事をした為に巨悪の結果を招いたのであり、「組織が命じても「それは自分にはできない」と判断して去る道もある。行為しないという抵抗の形もある」と書いている。
そして最後に、この前のゴーストライター騒動を例に挙げて「はやりもの、もてはやされるものには、からくりがあります。背後には商業主義や権威主義がひそんでいます。人がどう騒ごうが、自分で受け止め、自分で考えて、つまらなければそこから立ち去ればいい。自分は加わらない、自分はそうしない、という身の処し方もあるのです」と結んでいる。
そこに書かれてある事は創価学会にも言える事で、創価学会には様々な矛盾点があるのだが、それに疑問も持たずに幹部から言われた通りに動く「自分の頭で考えない」信者が多い。たとえ矛盾を感じてもそれを封殺される雰囲気が創価学会にはある。その為、矛盾や疑問を抱きながらも幹部に言われるままに学会活動を続けている信者もいる。
しかし、そのような学会員の行動が人や社会に迷惑をかける結果になっているのだ。
それがハンナ・アーレントの言う「自ら考えないことの悪」なのである。

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創価学会と左翼集団の共通点

今月は創価学会にとっては「伝統の2月」で、「2月闘争」の月なのだそうで、聖教新聞にも「闘争」という言葉がいつもより多く見られるようだ。筆者は学会活動を始める前、周りの学会員が「闘争、闘争」と言ってるから「創価学会は何を闘争するのだろうか?」とか「賃上げ闘争のようなストライキでもやるのだろうか?」とか思っていたのだが、学会活動するようになってから折伏をして信者を増やす活動だという事が判った。
それにしても、創価学会は法華経を基にしている教団だと言っているが、法華経のどこに「闘争」という言葉があるのか。また、創価学会は御書根本だと言っているが、御書のどこに「闘争」という言葉があるのか。
およそ「闘争」という言葉ほど仏教に似つかわしくない言葉はないだろう。それよりも、創価学会がよく使う「闘争」とか「革命」という言葉は、左翼集団が好んで使う言葉である。そういう面から見ても、創価学会は仏教というよりも左翼集団に近い団体だと言える。
仏教は内面性を重視する立場であるにも関わらず、創価学会は内面性よりも外面的な活動を重視しており、元々マルクス主義の唯物思想から派生した左翼集団の外面的な活動重視の立場と共通している。それだけに、〇〇闘争と銘打っては闘争活動を繰り返している左翼集団に、「2月闘争」などと銘打って活動している創価学会はよく似ている。
そういう点から見ても創価学会は仏教ではないと言えるのではないだろうか。

マスメディアが創価学会に支配される前と後の違い

今では関心がなくなってしまい殆ど読まなくなったのだが、若い頃は推理小説にはまっていて、国内外の推理小説を乱読していた頃があった。そういう中で、高木彬光氏の作品にも傾倒していた時期があり、通っていた図書館に所蔵されていた高木氏の著作品を全部読んでいった事があったのだが、その中に創価学会を批判している内容のものがあったのを今でも覚えている。その著作品は『裂けた視覚』という推理小説で、詐欺事件が基になって起こる殺人事件を描いた内容なのだが、その第2部で、宗教家の金儲けの話と創価学会の金集めの実態を批判的に書いていたのである。しかも創価学会は実名で書いてあった。当時はまだ学会員だった頃で、好きな作家が学会批判しているのを見て驚いたものである。
高木氏は相当創価学会を嫌っていたようで、その当時、どの本であったかは忘れてしまったが、「他の宗教を全て邪宗教だとけなして自分達だけが正しいと驕り高ぶっている輩が創価学会だ」といったような事を嫌悪感も露わにした文章で書いていたのを見た記憶がある。
勿論、創価学会を批判する内容の書籍は今でも出版されているが、有名な作家が創価学会とは直接関係のない内容の小説で実名を挙げて創価学会批判をするというのは今では考えられない事である。作家が創価学会の実名を出して書いていても、出版する時、創価学会の名前は削られる事になるのではないか。そこがマスメディアが創価学会に支配されるようになった時期の前か後かという分岐点になるようだ。
当時通っていた図書館には昭和30年代に出版された古い本も多数所蔵されていて、高木彬光氏の著書の多くも昭和30年代のものが多かった。昭和30年代というとまだマスメディアが創価学会に支配される前だったから、内容と直接関係がないのに創価学会批判を書いていてもそのまま出版されたのだろう。
その『裂けた視覚』という本はその後新しい版で読み返した事はないのだが、恐らく新版では創価学会の名前は削除されているのだろう。というのも、高木氏が創価学会を批判していたのは世間でもよく知られているのかと思ってインターネットで検索してみたのだが、高木氏が学会批判していたという検索結果を見つける事はできなかった。つまり古い版で読んだ人が少ないからインターネットでもその結果が出てこないのだと思う。高木彬光氏が創価学会を批判していたという事実も今では消されてしまっているという事だ。
それから、高木氏の本を読んでいた頃よりももっと後の事になるが、同じ図書館で、仏教学者の渡辺照宏氏が昭和30年代に出版した『仏教』という仏教の歴史と思想の変遷を仏教学の立場から解説している本を読んだのだが、その中で「日本には仏教の本質を理解していない人が多い」とした上で、「われわれの身辺でも「まさかあの人が」と思うような人物が突然、低劣な宗教の狂信者になったり、無知狂信の輩と思われる宗教のグループが、急に政治的に進出したりする例を見るのも、宗教の真空地帯におこる現象なのである」と書いている箇所があった。名前こそ出していないが、一読して創価学会の事である事はすぐ判る。評論家と違って、宗教学者や仏教学者は特定の宗教団体をあからさまに批判するという事はあまりないのだが、その文章には高木彬光氏の場合と同じく創価学会に対する不快感と嫌悪感が表わされている。
その後、『仏教』の第2版が出版されている事を知り、入手して読んでみたのだが、内容が全面的に書き改められており、創価学会を批判している箇所も見当たらなかった。
その第2版が出版されたのは昭和40年代後期である。マスメディアはすでに昭和40年代半ば(1970年代)から創価学会に支配されるようになっていたそうだが(いわゆる「鶴タブー」)、その時期と符合する。
つまり作家や学者は創価学会の支配下ではまともな学会批判も封殺されているという事だ。
つい先日も、大手一般紙に「人間を信じる。平和と核廃絶を信じる。」という大見出しで英語と日本語の文章を書き並べた創価学会の全面広告が掲載されていた。確かにこの現状を見れば、マスメディアが創価学会に支配されている事はよく判る。マスメディアにとって創価学会は上得意客なのだから批判もできないという有り様だ。
マスメディアの利益の為に不正なものが批判もされず、報道すべき事が隠蔽されるような社会は健全な社会では有り得ず、様々な歪みを生み出してゆくだけだ。創価学会が支配する社会に明るい未来はない。

「思考停止」の学会員に読ませたい書籍

熱心な学会員ほど幹部の言う事を丸呑みに信じ込み、自分の頭で考えない「思考停止」状態になるものだ。そうして創価学会の操り人形になって悲惨な人生を辿っている会員も多い。
そのような自分の頭で考えられない学会員には池田晶子氏の著書を読む事を勧めたい。
池田女史は「哲学エッセイ」というジャンルを築いた哲学者・文筆家で、特に2003年の『14歳からの哲学―考えるための教科書』で話題を集めていた。ただ数年前に46歳で早世したのが惜しまれる。
その池田女史が著書や講演で訴え続けたのは「自分の頭で考える」という事であった。
とかく世間では「長いものには巻かれろ」という風潮や、自分の頭で考えないで流行を追いかけ他人の真似をし、人の動向に振り回されるという傾向にある。それら世の中の事象を池田女史は「哲学エッセイ」で絶妙の文章力と哲学的論理で批評し斬りまくっていたのであるが、その皮肉とユーモアの効いた軽妙な文体は実に面白く共感する所も多かった。
これまでそれらの著書を何度か読み返しているが、何度読んでも面白いし共感できる。面白い上に頭にも良いというのが池田晶子氏の著書の特徴だ。
その池田女史の著書の中には、創価学会の天敵・週刊新潮に連載していたものもある。池田女史は別に創価学会と敵対関係にあった訳ではないが、その週刊新潮に連載していた著書の中で創価学会を取り上げている記事があった。創価学会をあからさまには批判していないが、嫌悪感を抱いていた事がその文章で窺える。例えば、創価学会が標榜している「平和」「人権」「生命の尊重」という言葉を偽の言葉であると見抜き、創価学会を偽善の団体だと見なしている。
創価学会ではよく「これだけ学会の勢力が大きくなったのは我が学会が正しいという事の証である」とか、学会員が折伏する時も「世の中の大勢の人々が学会員になってるのは創価学会が正しいからだ」と言ってるが、これなどは悪質商法の販売員が「この辺りの住民もたくさんこの商品を買ってますよ」と言って契約を迫るのと同じで、人の猿真似をする事が正しい事であるとか、何も考えずにただ人に付いて行く事が常識であるかのように思わせて思考停止させ従わせるという手口なのである。
そのような創価学会は池田女史から見ればいかがわしい団体に映っていたのは当然であるし、その学会に付いて行く熱心な学会員も「自分の頭で考えないで長いものに巻かれゆく愚かな大衆」と映っていたのも当然だろう。
だからこそ「自分の頭で考える」事の重要さを訴えていた池田晶子氏の著書こそ学会員が読むべき本だと言えるのである。
同じ「池田」名義の書籍でも、池田名誉会長名義の本よりも池田晶子氏の本を読んだ方が面白いし頭にも良いのは確かだ。

「切断」の思想から見る創価学会

近頃、千葉雅也氏(哲学者・批評家)がドゥルーズ哲学を解釈した「切断」の思想が注目されているのだそうだ。現代は近年のスマートフォンの普及などに見られる「接続過剰」な社会となっており、「気にし過ぎ」「気にされ過ぎ」という息苦しい状況に陥っているとし、その息苦しさから「個」として呼吸の余地を取り戻すには、程良い「切断」が重要だと説く思想で、「動き過ぎてはいけない」「繋がり過ぎてはいけない」と強調している。
確かに東日本大震災以後、「絆」とか「つながり」という言葉が強調されるようになっているが、それが過剰になると息苦しさを感じるものである。
そういう意味で「繋がり過ぎ」「気にし過ぎ」「気にされ過ぎ」の代表格が創価学会の組織ではないだろうか。以前にも当ブログに書いたが、「腹十二分」以上の濃密な人間関係と「動き過ぎ」の学会活動を強要される学会組織には息苦しさを感じている人も多いはずだ。
千葉氏は言う。「動きすぎないというのは、自分を他者に関係づけすぎないということです。が、動かないのではない。他所へ、他者へ関心を向けるのをやめて「ひきこもり」に徹しようというのではありません。動かないのではない、「すぎない」くらいに動くのです」(紀伊國屋書店サイトの特集記事より引用)
要するに「極端に偏るのではなく、程々にせよ」という事であり、これは仏教の中道にも通じる考え方だと言える。
その点からしても極端に偏り過ぎていて中道から外れている創価学会などは仏教を名乗る資格もないだろう。

更に千葉氏は言う。「まずもって自分が楽しいということ、それを譲らないのが一番です。この基準はすごく大事だと思う。実際、何か譲歩したり、犠牲にならなきゃいけないことが出てきたら僕はできるだけ引きますし、犠牲になりたくないという思いがいつもあります。これはワガママじゃない。断固として、ほかの人にも犠牲にされるなと言いたいですね。事情の難しさはそれぞれとしても、犠牲にされない工夫をする。知性はそのためにあります」(『WEBRONZA』より引用)
「ほどほどに付き合う」「関わり過ぎない」というのは当たり前の事であり、別に哲学として論じる必要もないとは思うが、創価学会のようなカルトが存在する限り、理論武装としてこの「切断」の思想を知っておくのも必要かも知れない。

「庶民」を愚弄する創価学会

カトリックでは、これまでスキャンダル続きだったバチカンの立て直しの為、新ローマ法王フランシスコによる教会改革が進められているのだという。元駐バチカン大使・上野景文氏によれば、新法王による教会の使命の再定義として、教会は清貧・無私を旨とし、教会自体、貧しくなるべきであり、貧しい人々の為のものであるべきとし、更に中央集権構造から各現場の実情を踏まえた分権構造への転換を目指し、教義による「排除の文化」から「包摂の文化」への転換を図っているのだという。確かに新法王就任以降、その言動は多数の心を捉えて共感されており、高い存在感を示しているようだ。ただ、保守層の反発が必至であるだけに改革がどこまで実現できるか不明ではあるが、法王のその決意は評価できる。
そこで翻って創価学会を見てみるならば、日蓮正宗との抗争では「これは宗教改革の戦いだ」と息巻いていたが、創価学会自体が改革すべき存在である事は論を俟たない。「宗教改革の戦いだ」と自分達を正当化しているが、その実情は特権階級が一般信者の上にあぐらをかいて権力を欲しいままにし、結果、信者は貧しく奴隷化し、特権階級は更に肥え太るという支配者と被支配者の2極化構造となっている。
創価学会は自らの立場を庶民の宗教であるとし、「庶民こそ英雄」「民衆のため」「庶民の味方」などといかにも庶民の側に立った宗教であるかのように宣伝しているが、その実態は庶民を喰い物にする悪質な団体である事は周知の事実である。政治家や学者などの著名人・権力者には媚を売って大事にし、庶民の一般信者には無理難題を押し付けて勢力拡大の道具としてこき使うと共に収奪をも行なっている。「庶民の宗教」と言いながらこれほど庶民を愚弄するものはない。
そのような創価学会首脳には法王フランシスコの爪の垢でも煎じて飲ませたい所ではあるが、創価学会に改革を望む事自体が無理な話ではあるだろう。創価学会の目的は宗教的な所にはなく、現世での権力を掌握して支配者になる事にあるのだから。学会員が「真の敵」は創価学会である事に気づかなければ創価学会に改革は有り得ないし、権力体制はいつまでも続くだろう。




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