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狂信的創価系サイトの分析

創価系サイトではアンチ創価ブログ・サイトに対する罵詈雑言がよく目に付く。
そこには、アンチ創価の立場に限らず、一般的立場からも敬遠されるような内容が書き込まれている。
このようなサイトには結局、盲信者・狂信者しか共感できないし、同じ学会員であっても、学会の矛盾点に疑問を持っている会員には共感できないだろう。
そして、アンチ創価側から誹謗中傷・悪口雑言を受けているという被害者意識を持っているようだが、自分達もまた「くそアンチども」とか「アンチ創価のアホ」といった品性のない罵詈雑言で罵倒している。そこには自分達は特別だという特権意識が見えており、それが傲慢さとして現れているようだ。
敢えてサイト名は書かないが、例として挙げるなら、あるブログはかなり有名な創価系ブログのようで、内容から察するに、ブログ管理者はかなりの狂信者のように見受けられる。創価学会だけが唯一絶対正しいという独善的立場からの上から目線の様子で、創価学会を批判する者は全て極悪と見なす姿勢に終始している。
例えば、
[ いわゆる、「アンチ創価学会」という連中が、ネット上にはたくさん存在する。持て余した時間と、自分の人生のマイナス感情をもって、学会批判に費やす手合いである。手口はどれも似たり寄ったりで、宗教的信条はカケラもなく、さほどの信念も持ち合わせてない。“常識”を前面にかざし、良心的な市民の仮面をつけて、学会攻撃をするところに共通点がある。学会への誹謗中傷を目的とした個人サイトや、何年にもわたって学会の悪口を書き続けている連中を見ていると、空恐ろしくなってくる。]
と、アンチ創価側が善良な創価学会に対して誹謗中傷・悪口雑言を浴びせている下劣な存在であるかのように書いているのだが、そう言いながら、
[ ネットを跳梁するくそアンチどもは、どうしてアンチになったのか? アンチという心理の深層には何が秘められているのか? アンチに未来はあるのか? はたまた、アンチの日常や性質について考えましょう。ま、馬鹿なだけだろうよ。いっけねえ、結論を言っちまったよ(笑)。]
といった具合に品性のない言葉使いで応酬しており、下劣さにおいてはアンチに勝っているようだ。

また、別の創価系サイトでは、
[ ふだん目にするメディアには、アンチ創価学会の記事や投稿、学会に対する侮蔑の言葉がいっぱいです。]
と、創価学会側がいかにアンチ側から罵詈雑言によって侮蔑されているかという事を強調しているのだが、
[ アンチ創価は、自分たちの行動が創価学会にとって好都合であることが理解できない程度にアホである。アンチ創価のアホさ加減は、あと数世紀はなおらない。ならば放置したほうが楽である。なにより、敵対するアホがアホのまま放置されているのを見る喜びは、そうざらに味わえるものではない。 ]
といった具合に、こちらもまた品性のない罵詈雑言を浴びせている。
アンチ創価側が感情をむき出しにして学会批判をしている場合があるとしても、それに対する創価系サイトでもそれに負けないような汚い言葉、品性のない罵詈雑言が見受けられており、その点では五十歩百歩だ。特に創価学会を至高の存在と印象づけるには無理があるし、第一に、創価学会が批判されるのはこれまで批判されるような事を創価学会がしてきたからである。よく創価学会は「謂れなき非難を浴びせられ迫害を受けてきた」などといかにも善良な被害者面をしているが、創価学会がこれまで横暴な悪行を繰り返してきたからではないか。それに対して批判を浴びるのは当然の事だ。
そして何よりも、このような狂信的な創価系サイトは、アンチ創価の立場ではない一般人の立場から見てもその異常な狂信ぶりが感じられる事だろう。創価学会は開かれた宗教だなどと自賛しているが、これらの狂信者のサイトを見て、共感する一般人はいないだろうし、学会員であってもよほどの盲信者・狂信者でなければ共感できないのではないか。
実際、上記の2つの創価系サイトは狂信的な学会員の中ではカリスマ的立場にあるようで、コメント欄を見ても、同じく狂信的な学会員の狂信的なコメントが数多く書き込まれている。
もし筆者が今でも学会員であったとしても、同じ学会員と言ってもこのような連中とは関わりたくない。創価学会と関わりのない一般人ならなおさらそう思うだろう。
それに、アンチ創価を全て暇人が面白半分に学会攻撃をしていると十把一絡げ的に考えているようだが、アンチ創価の大半は創価学会に悩んでいる学会員だと言ってよい。そのような悩める学会員に対してもその悩みに寄り添う事もせずに「創価学会についてこれない落ちこぼれ」という見下した態度しか持っていない。
創価学会では「慈悲」を強調し、慈悲については、「悩んでいる人の事を我が身と感じて同じように悩む事」と定義した指導があるが、狂信的な学会員は悩める学会員の苦しみに同苦する事もせずに「信心が足りないからだ」「師弟不二の覚悟がないからだ」といった決まり文句で片付け、創価学会に悩む学会員を見下している。そうして創価学会にどこまでもついてゆく自分達こそ絶対正しいという謂わば選民意識によって悩める学会員を突き放しているだけなのだ。

もしも創価学会が広宣流布を成し遂げて、日本全国のあらゆる場所にこんな狂信的な学会員が大手を振って跋扈するようになったとしたら、それを思うだけで空恐ろしくなってくるし、創価学会が支配する社会になりインターネットも規制され「創価学会」で検索しても狂信者のサイトばかりしか見れないようになったらと思うと恐怖を覚える。
結局、狂信者だけでしか共感し得ないような集団は開かれた宗教などとは言えないし、特殊な集団としか言えないだろう。
これから創価学会が衰退してゆくのは時代の流れで避けられない事であるが、それでも最後まで創価学会に残るのはこのような狂信者達という事になるだろう。


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正しければ何をしても良いのか?

創価学会はいつも「正義、正義」と連呼しては自分達の行動を正当化してきたが、正しければ何をしても良いのか? 正しければ全て許されるのか? と思っている人は多いだろう。
創価学会にはその「正義」「末法の正法」を表看板にしてやりたい放題やってきたという歴史がある。
例えば折伏にしても、今でも創価学会の折伏には強引さやしつこさが問題になっているが、昔の折伏はもっとひどかったようだ。特に戦後の復興期から高度経済成長期の昭和20年代から昭和30年代はその凄まじさが社会問題化していたものだった。
その頃の折伏の被害に遭ったという人のブログを見つけたので、こちらを参考にしていただきたい。その当時の創価学会の悪行が伝わってくる。
   ↓     ↓     ↓      ↓

http://ameblo.jp/makinotugio/entry-11809821695.html


学会員は昔の非常識な折伏行について問われると、「それはもう昔の話だから」とか「今の創価学会にはそんな事は全然ない」などと言って言葉を濁すのだが、確かに昔の創価学会の悪どさに比べればまだましになったとは言えるが、それは昔の創価学会が悪過ぎたからで、それに比べたら今はまだましという程度で、決して創価学会が清く正しく改善されたという訳ではない。しかも、表側からは判らない非合法活動は今でも行なわれているようであるし、創価学会が「正義」などと言える立場ではない。
勿論、「正しいから何をしても良いんだ」と言って許される訳がなく、自らを省みる事もないような団体は少なくとも仏教の名に値しないし、その行動は仏教にも創価学会が宗祖と仰ぐ日蓮にも泥を塗る行為だと言える。
第一に、創価学会が正しさの根拠にしている天台の五時教判説は、近代仏教学の研究によってその正当性はすでに崩壊しているのだから、創価学会の正しさの主張もすでに崩壊しているのである。
それにも関わらず未だに「唯一の正しい宗教」だとか「唯一の末法における正法教団」などと豪語しても嘲笑されるだけでしかない。
少し前に「ある創価系ブログについての一考察」という記事に書いたブログ運営者の学会員は「マインドコントロール論はアメリカでも日本でも疑似科学として相手にされてもいない」と言って科学として認められていないからマインドコントロールは存在しないと主張していたが、それを言うなら、創価学会が自らの正しさの根拠として主張している天台の五時教判も近代仏教学という科学によってその歴史的事実としての根拠を否定されているのだから、もはや科学から否定されている創価学会の正しさなどは存在しないという事になる。
そのように、元々存在もしていない創価学会の「正しさ」だの「正義」だのを振りかざしていても、全ての人間を欺く事は不可能だ。何よりも創価学会の悪どい行動によって「正しさ」も「正義」も自らが崩壊させてしまっているではないか。
創価学会はこれまで大衆を愚弄し欺いてきたが、「大衆は愚にして賢」である。まずはインターネット上で、創価学会への反逆が始まっている。これまで「唯一の正しい宗教」とか「正義」とかの偽の旗によって大衆の上にあぐらをかいてきた創価学会だが、これからは衰退への歴史を刻む事になるだろう。

創価学会がカルトである事の定義と特徴

少し前に「ある創価系ブログについての一考察」という記事にも書いたように、熱心な学会員は創価学会がカルトであるという事を夢にも思ってないようで、「創価学会はカルトだ!」という指摘に対しても、どこか他所の国の事ででもあるかのように自分達とは無関係のような態度を取るのだが、カルトの定義及び特徴に照らし合わせれば創価学会がカルトである事は明らかだ。それでもカルトの定義や特徴が判らないという学会員や創価学会がなぜカルト視されるのか判らないという学会員の為に、ここにカルトの定義及び特徴について記しておきたい。
ここでは『ウィキペディア』の「カルト」のページから、その定義及び特徴を転載し、それぞれの項目(あるいはそれぞれの条件)に対応する創価学会の特徴を記しておきたい。


【 カルトの定義・特徴 】

マイクル・シャーマー(アメリカの科学史家)によれば、一般的に以下のように性格づけられる。

指導者に対する崇拝
聖人、あるいは神格に向けられるものとさして変わらない賛美。


創価学会の場合⇒ 池田名誉会長を宗祖・日蓮と同等かそれよりも格上であるかのように賛美し、その存在が本仏と同じであるかのように幹部指導が行なわれ、信者に個人崇拝させている。


指導者の無謬(むびゅう)性
指導者は絶対に間違いを犯さないという確信。


創価学会の場合⇒ 池田名誉会長の言う事は全て正しく絶対に間違いがないという幹部指導が行なわれている。


指導者の知識の広さ
哲学的な事柄から日常の些細なことまで、指導者の信条や口にすることはなんでも無条件に受け入れる。


創価学会の場合⇒ 池田名誉会長の言う事は全て正しい事として無条件に受け入れなければならない雰囲気が作り出されている。


説得のテクニック
新たな信徒を獲得し、現状の信仰心を補強するために、寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま。


創価学会の場合⇒ 未入信者には創価学会に入信しなければ不幸になるかのような脅迫めいた言説の折伏を行ない、信者に対しても学会活動をしなければ不幸になるかのような脅しや、いかに池田名誉会長と創価学会から恩を受けているかという事を吹き込み、恩を返さない者は犬畜生よりも劣るという言説によって威圧し活動に駆り出している。


秘密の計画
信仰の真の目的と計画が曖昧としている、あるいは新規入信者や一般大衆にはそれらが明確に提示されていない。


創価学会の場合⇒ 日蓮の教えによって幸福境涯を築くと謳っているが、日蓮の教えにない選挙活動や機関紙の販売拡張の営業などに信者を駆り出している。


欺瞞
入信者や信徒は、その頂点に立つ指導者や集団の中枢部に関してすべてを知らされるわけではなく、また大きな混乱を招くような不備や厄介事に発展しそうな事件、あるいは状況は隠蔽されている。


創価学会の場合⇒ 池田名誉会長が表に出てこない状況が長く続いているのに信者に真実の理由を知らせないなど、実際の状況を隠蔽している。


金融面および性的な利用
入信者や信徒は、その金銭およびそのほかの資産を差し出すよう説得され、指導者には一人かそれ以上の信徒との性的関係が許されている。


創価学会の場合⇒ 毎年の財務において、高額の金額を寄付すれば大きな福運が付くなどと幹部が指導している。


絶対的な真理
さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見いだした究極の知識に対する盲信。


創価学会の場合⇒ 創価学会こそ絶対的に正しい教団であると信者に盲信させている。


絶対的な道徳観
指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しくあてはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。その道徳の基準にきちんと従えば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる。


創価学会の場合⇒ 自己と家庭を犠牲にしてでも学会活動に励む信者が学会組織では称賛され、学会活動に参加しない信者は誹りや皮肉を浴びせられる。

 
以上であるが、全ての項目に創価学会は当てはまっている。つまり、創価学会はカルトの条件を全て満たしているのである。
勿論、このような形式的な事に厳密に当てはまるかどうかが重要なのではなく、そしてカルトかカルトでないかという形式的なレッテル貼りが重要なのではなく、疑問と矛盾を抱いているのに無理をしてついて行ってないかどうか、そして無理してついて行って幸福感を得られているかどうか、更に、それによって自分だけでなく周囲に迷惑を掛けていないかどうか。そういった事を省みて疑問や矛盾が解消されず自分も幸福感を得られず、更に周囲に迷惑しか掛けていないのならば、それはすでに信仰の目的から外れているのであり、もはや信仰する意味も価値もない事なのである。 
創価学会では熱心に学会活動に従えば従うほど疑問も矛盾も増えるばかりであり、幸福感も遠ざかり、周囲にも迷惑を掛けてしまうだけというのが現実である。常識ある人間ならそのように感じる事だろう。
創価学会で熱心に学会活動に励んで幸福だと思ってる学会員がいるとすれば、よほどの鈍感な人間か、よほどの非常識な人間くらいなものではないだろうか。
創価学会はカルトであるというのは、カルトの条件を全て満たしているからという事は勿論だが、結局熱心になればなるほど幸福になれないという事が創価学会がカルトである事の証拠だと言ってよい。

名誉会長のゴーストライターの証拠

池田名誉会長にはゴーストライターが存在し、名誉会長の著書にしてもメッセージにしても、ゴーストライターが代作しているとの噂が今や公然の秘密として創価学会内外に拡がっている。名誉会長の名前が大作だけに「代作」とはうまくできていると感心してしまうほどだ。
勿論、盲信・狂信している学会員は名誉会長の書いたものは全て本人自身が書いたものだと信じこんでいるのだろう。
筆者が学会員だった頃も、聖教新聞に掲載されている小説『人間革命』を、「池田名誉会長からのお手紙だと思って朝一番に読んでいる」と自慢気に語っていた地区部長がいたが、今から思うとそのように信じ込んでいる姿はなかなか滑稽に思えてくる。
名誉会長の著書などがゴーストライターによる代作だというのは今のところ噂の段階だが、代作されているという証明はある。それは『人間革命』及び『新・人間革命』を読んでみれば判るように、どちらも著者自身による自己礼賛・自己賛美・自画自賛の極みの書となっている点だ。筆者が学会員だった頃でも、この本を読みながら「よくこれだけ自分の事をヒーローのように書けるものだな」と思ったものだが、作家の井上ひさし氏も『ベストセラーの戦後史』という著書の中で次のように述べている。

感想としては、「これは恥ずかしい」のひとこと。自分のことをここまで持ち上げて書くことのできる神経は普通ではない。
いや、ほとんど異常といってよい。含蓄のかけらもない図々しい人間にしかこういう文章は書けないと思う。
ひょっとしたら「山本伸一」にごまをする代作者の筆になるものかもしれない、それなら
まあ分からないこともないのであるが…
いずれにしてもこの「人間革命」を読んで筆者は池田大作と創価学会に対する興味をあらかた無くしてしまった。


井上氏もその著書の中で代作ではないかと疑っているように、『人間革命』及び『新・人間革命』の中の主人公・山本伸一(イコール池田名誉会長)の自画自賛の文章は、単なる本人によるうぬぼれというよりも、名誉会長を崇拝しているかゴマをするゴーストライターによる代作だと考えれば納得できる。
本来ならば自分自身の事を書くのだからもっとへりくだった表現にするのが当たり前だが、そこは名誉会長を崇拝する気持ちからかあるいはゴマをする為か、つい、ヒーローのように賛美して持ち上げる表現にしてしまったのだろう。
それがつまり、ゴーストライターによる代作の証拠だと言ってよい。
それでも、あくまでも池田名誉会長自身が書いたと言うのなら、名誉会長はよほどうぬぼれの強い、謙遜する事を知らない人間だという事を図らずも自分で宣伝している事になるだろう。
何しろ盲信している学会員は「これは名誉会長が書いたものだ」と学会側から言われれば露ほどの疑いも持たずに信じ込んでしまうから、そういう発想さえ起きないのかも知れない。

例えば、ある有名な創価系ブログでは、世の中に出回っている「池田大作死亡説」に反論する為の記事の中で、東日本大震災の3カ月後に、英字紙ジャパンタイムスに「The courage to rebuild」(復興への勇気)と題する池田名誉会長の寄稿文が掲載された事をもって、それを名誉会長自身が書いた証拠とし、よって名誉会長がまだ元気に生きている証拠としているのだが、名誉会長が書いたとされている事をそのまま信じて疑わないその姿勢は創価学会にとってはまさに「愚直の信心」として称賛される事ではあるが、一般的には「愚かな人間」という事になるだろう。
最近聖教新聞に掲載された名誉会長の最新の写真を見れば、その表情のない顔によって認知症である事は一目瞭然であり、和歌やメッセージなど書ける状態ではない事くらいすぐ判るのだが、上記の有名ブログを運営している盲目的な学会員にはそういう簡単な事すら判らないようで、名誉会長自身が和歌も詠みメッセージも書いていると盲目的に信じこんでいるようだ。
このような盲目的な学会員がいる限り名誉会長のゴーストライター説は学会内部では噂のままだが、学会外部では周知の事実となっていく事だろう。「知らぬは盲の学会員ばかりなり」といったところだ。



ある創価系ブログについての一考察

先日、インターネットで検索していたら、ある学会員のブログを見つけた。そのブログ管理者は役職は明かしてないのだが、B長や地区部長の経験があり、今では時々地区部長と共に地区の部員回りをすると書いてあるから支部幹部ではないかと思われる。
その学会員のブログは記事数は少ないのだが、その中にアンチ創価学会ブログへの批判記事がいくつか書いてあった。
そのブログは現在は更新されてないようで、その記事自体は2012年のものだが、現在でも通じる内容なので、その「アンチ創価ブログへの批判」について考察してみようと思う。
そのブログ主は2週間の間に集中してアンチ創価ブログを検索して見て回り、その中のある有名なアンチ創価ブログにはコメントも書き込んで対話もしたそうなのだが、その結果として「(アンチ創価ブログは)数は腐るほどあるが(ほとんど実際に腐っているようだが)、これと言ったまともな内容のものはホントに少ない」と書いている。
そして「全部とは言わないが9割9分の学会アンチブログは「陰謀論」を無批判のベースで「感情論」を中心に話を進めている」とし、「「アンチ学会」と自ら標榜するのであれば、もっとしっかりした反学会論陣を張り(論理的に話をして)、実生活でも反学会活動(学会活動の阻止)をするべきだと思うが、それをやろうとは夢にも思っていない人種の集まりなのである」と結論付けしている。
一読して判る事だが、このブログ主は「創価学会に絶対間違いはない。創価学会は何が何でも正しい」という前提に立っており、その前提から「アンチの言う事は全く話にならない」と結論付けている訳で、アンチ側に論理性を要求しているが、その本人に論理性がなく、ただ「正しいものは正しいんだ」という1人よがりの論法しか見いだせない。

また、アンチ創価ブログでよく使われる「マインドコントロール」という言葉についても、「このマインドコントロール論はアメリカでも日本でも疑似科学として相手にされてもいない」と書いているのだが、問題にされているのは、マインドコントロールというものが科学的に認められているかどうかではなく、本人が自ら望んで創価学会に入会しようとする意思もないのに、「罰が当たる」「不幸になる」などの恐怖心を植え付けたり、人間関係の心的束縛によって入会せざるを得ないよう仕向けるなど、健全な判断能力を失わせるような行動をしている事を問題視しているのである。それを判りやすい表現として「マインドコントロール」という言葉を使っているのであって、マインドコントロールが科学として認知されていないからそのような行動は存在しないという事ではない。
このブログ主はマインドコントロールが擬似科学として科学者から相手にされていないからといって、創価学会に一切マインドコントロールを想起させるような行動がないかのように勝ち誇っているが、これまで創価学会が相手の人権を無視したような方法で折伏をしたり信者を活動に引っ張り出したりしていた事は周知の事実である。それらがつまりマインドコントロール的な行動なのであって、その概念が科学的に認められているかどうかが問題なのではない。マインドコントロール的な行動をしている事が問題なのである。
創価学会にマインドコントロール的な行動は一切存在しないと言うのなら、このブログ主は学会員だと名乗ってはいるが、現実の創価学会を知らない名前だけの学会員という事になるだろう。

それから、マインドコントロールについて「研究者の或る人の語訳では「強制的説得」という言葉を使っている。アメリカでは疑似科学だとのことである。要するに再現性が無いとのことらしい。「説得」を「強制」してやっていく、のはどこの組織にでもあるありふれた方法論である。それをマインドコントロールという横文字にすると、何となくよく分からない不気味な響きの言葉になる。日本ではこの「強制的説得」という言葉を盛んに使用して、…だからカルトだ!という短絡的な結論を出して、そしてそれが真実・事実だとの前提で話を進めていく。強制的説得とは他人の精神を自由にコントロールできるものでは全くないのだが、それが可能だと信じ切っているのだ」と、このブログ主はいわゆる強制的説得がどこの宗教組織でも使っているありふれた方法であり、何ら害のないものであるかのように断定しているが、創価学会の折伏方法と一般的な宗教の布教方法には大きな違いがある事も周知の事実ではないか。創価学会の折伏方法は一般的な宗教の布教方法と何ら違わないと思い込んでいるこのブログ主の問題意識の無さこそが問題なのであって、創価学会がこれまで行なってきた強引な悪質商法のような折伏行をも正当化するものであり、自分達の行為を何ら省みる事もないその無反省な有りようこそが問われるのである。

また、このブログ主はある有名なアンチ創価ブログにコメントして対話した時、「「アンチ」は理論的な話はほとんど出来ない世界だと実感した。自分のコメントに対して1~2人ほどはしっかりした対応をしてくれていたが、あとは感情論、陰謀論、モノトーン、非難等々、全く話にはならなかった」と思ったそうなのだが、それは学会員のブログも同様で、筆者がこれまで見てきた学会員のブログのコメント欄でも、創価学会に異を唱えるコメントに対しては、学会員が寄ってたかって罵詈雑言を浴びせて非難する書き込みが多かった。要するに自分達も同じ事をしている訳で、他を批判できる立場ではないだろう。
以上、学会員のブログについて考察してきたが、終始「創価学会に間違いはない」という結論ありきでの論調でしかなく、アンチ創価側を理解しようという努力も見えない。だからアンチ創価ブログにコメントを書き込んで対話しても「全く話にならない」という結果になるのであるが、それは自分がそういう態度でしか対話しないからであって、当然の結果だと言える。
そもそも、創価学会が正しさの根拠にしている天台の五時教判説は近代仏教学の研究によって正しさの基準とは言えなくなっており、現代では創価学会が唯一正しい宗教などという主張は通用しなくなっている。
勿論、それを判った上で「自分は法華経を学んでみたいから」「自分は日蓮の教えに関心があるから」「自分は創価学会が好きだから」という事で自分の宗教を選ぶのは構わないが、「創価学会だけが唯一正しい宗教であり、創価学会に入信しなければ地獄に堕ちる」というような脅迫で入信を迫る事が問題なのである。それが創価学会がカルト呼ばわりされる原因の1つとなっているのだ。

そしてもう1つ。このブログ主には、アンチ創価側、特に創価学会を脱会した元学会員に対しては、「学会についてこれなかった落ちこぼれ」という上から目線の傲慢さが見えており、それが「「アンチ学会ブログ」の運営者は人生においても敗残者なのだ。実際の生活環境で学会への反論は棚に置いて(鍵を2重に掛けて)おいて、とにかく楽なネット上で大騒ぎをするのが基本好きな人種のようだ。と言うか、それしかできない連中なのであろう。そしてそこに群がって「コメント」をしたり顔で書いている人間も、また同類」という文章によって表わされている。
現実に存在する創価学会の問題点を棚上げして、その問題点を論じるアンチ創価ブログを理解しようともせずに「創価学会にどこまでもついてゆく我々こそ正しい」とするその姿勢こそ健全な社会と対立する元凶だと言わざるを得ない。


創価学会では迷信も「哲学」

創価学会は自分達の思想なり行動なりについて盛んに「哲学」という言葉を使っているのだが、実際には創価学会には哲学などと呼べるようなものはない。
特に筆者の親の世代では、幹部が座談会などで指導する際、「折伏をしない者は来世はミミズに生まれ変わる」などと言って会員を脅していたそうだが(母から聞いた話)、「折伏をしない者は来世はミミズに生まれ変わる」という教義あるいは思想は、法華経のどこに説かれてあるのか、あるいは御書のどこに書かれてあるのかという論拠も示さず、幹部の思いつきで「講釈師、見てきたような嘘を言う」のと同じような事をしている訳で、それは迷信信仰であって哲学ではない。
創価学会は外部の有識者向けに「哲学」などと高尚ぶってはいるが、実際の創価学会の現場では迷信信仰が横行しているのである。そして、それは今でも大して変わらないようだ。まずは幹部に「哲学」の定義をよく教え込んでおく必要がありそうだ。

  

ゴキブリキャッチャーならぬ新来者キャッチャーの座談会

この所、聖教新聞に「わが地区の大座談会運動」という記事が頻繁に掲載されている。5月6日付の同記事には「20年以上、毎回友人が参加する”地域のオアシス”」「ここに学会の真実の姿が!」との見出しが並んでいる。
また、本文には、座談会に参加している友人(非学会員)の感想として、「いつも声を掛けてもらい、うれしい。心のリフレッシュができます」「何事にも負けない勇気を教わっています。これからもずっと参加し続けたいです」と書かれてあるのだが、このような記事を読んで「それはすごい!」とか「うちの地区とはえらい違いだ。うちの地区もそうなるようにもっと頑張らなければ!」と思っている学会員がいるのかも知れない。
しかし、聖教新聞の記事は謂わば「大本営発表」で、平気で嘘の記事も書くからまともに信じない方が良い。学会員でも出たがらない者が多いのに、部外者が「これからもずっと参加し続けたいです」などと言う訳ないだろう。
今や創価学会の座談会と言えば内容もマンネリ化し、老人会のようになってしまっている地区も多く、とても「信心の息吹に満ちた会合」などとは言えない。
聖教新聞に書いてあるような座談会が行なわれている地区はそれこそ希少な存在ではないだろうか。実際の所、座談会を「楽しい」と思っている学会員がどれほどいるだろうか。義務感で参加している者の方が多いのではないだろうか。
創価学会によれば座談会とは、信心による体験を語り合い、励まし合い、教学を研鑽し合い、更に信心を深めていく場なのだそうだが、そもそも、学会員には座談会で語り合えるような功徳の体験談がないし、悩みや問題を語り合おうとしたら幹部指導で「信心が足りない。もっと題目唱えろ、もっと学会活動に頑張れ」としか言われないからそれも言い出せないだろう。
しかもそれだけではなく、座談会は新入信者を増やす為の折伏の場でもある。創価学会公式サイト「SOKAnet」にも、「座談会は教学研鑽の場とも、折伏の場とも、また、指導の場ともなる、一切の基盤といえよう」と書いてある。
今はどうか知らないが、筆者が学会員だった頃は主に青年部による折伏座談会が頻繁に開催されていた。そこに青年部員が友人・知人を連れてきて、1人の新来者を数人の学会員が取り囲んで折伏していたものだった。
そこでは、座談会が始まる前に幹部から「他の人が折伏している間、黙って聞いてないで「そうだ!」とか「その通り!」とか相槌を打てよ」などと「指導」されたものである。そうして新来者に威圧感を与えて入信を迫っていたのである。これなども後で思えば、悪質商法の強引セールスと変わりがない。
また、折伏座談会以外の普段の座談会でも、創価学会の会合の和気あいあいとした雰囲気を演出する事によって新来者に「創価学会は楽しい所なんだ」と思わせて入信させるというのが創価学会のいつもの手であった。
座談会での和気あいあいとした楽しそうな雰囲気に騙されて入会したら、さっそく役職付けられノルマを課せられこき使われ、抜けたくても抜けられなくなり後悔する事になるだろう。まさにゴキブリキャッチャーならぬ新来者キャッチャーとなっているのが創価学会の座談会なのである。
座談会とは良く言えば「信心による体験を語り合い、励まし合い、教学を研鑽し合い、更に信心を深めていく場」だが、裏を返せば「信者をマインドコントロールする場であり、部外者を新たに信者として引き込む場」であると言える。


偽りのない言葉の重み

当ブログで以前に反創価ブログとして紹介した事のある『はあ~疲れるよ、創価学会』。
もう更新されていないのだろうと思っていたのだが、近頃久しぶりに覗いてみたら、少しずつだが記事が更新されていた。
そのブログには、巨大教団・創価学会での理不尽な現実を実際に体験した人だからこそ書ける偽りのない言葉が記されている。だから心から共感できるのである。
そのつぶやきにも似た文章には、創価学会を実際に体験もしないで学会首脳の言う事だけを取り上げて創価学会を絶賛している著名な学会擁護者の言葉よりもはるかに重みがある。
そして、そのブログだけに限らず、現役学会員・元学会員に関わりなく理想だけの建前論ではなく現実での本音を語るブログの言葉にこそ偽りのない真実がある。
創価学会を絶賛している外部の文化人も学会首脳の本だけを読むだけではなく、巨大権力の犠牲になっている庶民が書いた重みのあるブログを読んでみるべきだ。

創価擁護者に覚悟はあるのか?

創価学会という巨大権力に擦り寄る文化人・知識人がいる中であっても、創価学会を嫌っている文化人や胡散臭く思っている知識人もいる。勿論、こちらの方が多い事だろう。
その昔、政治評論家の藤原弘達氏が『創価学会を斬る』を出版した時、「よくぞ言ってくれた!」と賛辞を寄せた知識人も多数いたそうだから、普段創価学会に何も意見を言えないでいる知識人であっても、誰かが藤原弘達氏のような行動を取ったならば、多くの賛同の声が起きるのだろうと思う。

先日、米原万里氏の著書『打ちのめされるようなすごい本』を読んでいたら、創価学会に関して次の一文が書いてあったので紹介しておきたい。


「藤原(弘達)ら学会批判者が受けた出版妨害や凄まじい嫌がらせ、元公明党委員長竹入に対するパージなど、一切の批判を受け付けない閉鎖性、マスゲーム好みに見られる絶対的池田崇拝は北朝鮮を彷彿とさせる。公明党幹部の人選から政策まで悉く池田の意向で決まっていくのだから、今や政教分離は死語だ。選挙の票読みと寄付の多寡によって信仰の深さを評価され学会内位階が決まっていく宗教らしからぬ競争原理に煽られて、信者たちが資産を食い潰され、心をすさませ、家庭崩壊に追い込まれていく様をルポした井田真木子は、信者がそれでも学会から抜け出せず、被害者意識を持ちにくいのは、池田への帰依がオウム真理教のそれと瓜二つな擬似恋愛的ハーレム状態にあるためと見抜く」


池田名誉会長及び創価学会への歯の浮くような礼賛を繰り返している文化人がいる中で、このように鋭く創価学会の問題点を指摘している知識人もいる。
ところで、その創価学会を褒めそやしている文化人はどこまで創価学会を正しいと思っているのだろうか。
1980年代に入ってから特に週刊誌が創価学会批判キャンペーンを張るようになって世間で学会バッシングが巻き起こった時期があったが、その時、それまで創価学会を称賛し擁護していた外部の文化人・知識人の殆どが批判されている創価学会を擁護する事もなく一斉に沈黙したものであった。
結局、創価学会を称賛し擁護している外部の文化人の多くはこの程度のものではないだろうか。自分が批判に晒されてでも創価学会を擁護するという文化人は殆どいなかった。要するに、自分の立場が危なくなれば創価学会から距離を置いて知らん顔を決め込む、という程度のものでしかなく、そういう点においても、やはり創価学会と擁護している文化人との関係はビジネスライクなものでしかないという事になるのだろう。
そのような外部の文化人・知識人は結局、創価学会の巨大な権力を当てにして親しくしているだけという事になるようだ。

現在、盛んに創価学会を絶賛している佐藤優氏だが、その創価学会が世間から大バッシングを受けた時、果たして自分が非難されるのも構わずに創価擁護を貫く覚悟があるのだろうか? その時が見ものである。




創価学会の対外戦略

前回の記事に関連して書いておきたいが、創価学会を宗教団体として見ると実態を見誤る事になる。一般的に、宗教には崇高さ、清らかさ、正直さといったイメージを持ってしまうものだ。勿論、それはあくまでも理想像であって、現実の宗教は人間が運営しているのだから、もっとドロドロした人間臭さというものがあるのが当たり前だとも言えるのだが、それでも、宗教に世間一般とは違うものを求めている人は多いだろう。
しかし、創価学会にそのような世間俗世と違うものを求める事自体が間違いなのである。
創価学会は宗教団体を装ってはいるが、実態は利益を追求している企業である。しかもただの企業ではなく、あくどい悪質商法の企業だと言ってよく、その上、利益追求と自分達の身分立場を守る為ならあらゆる謀略策略をも弄するという謀略団体だと言ってよい。
その創価学会が対外戦略として行なっているのが前回の記事にも書いた外部の文化人・知識人への懐柔策であり、それら外部の知識人を広告塔として使う宣伝戦略なのである。
前回にも書いた評論家・佐藤優氏を外部の広告塔として使っているのもその一環だと言えよう。
佐藤優氏は最近、潮出版社から『地球時代の哲学』という、池田名誉会長とトインビー博士との対談を絶賛した本を出版しているが、それによって世間に対してどのような効果があったのか。
外部の文化人や知識人が創価学会を絶賛する事で、創価学会の実態をよく知らない一般の部外者がどう思うかという極めて判りやすい実例がこちらにある⇒ http://blogs.yahoo.co.jp/shinyan1007/64525701.html?from=relatedCat

そういう意味で創価学会の戦略は功を奏している一面はあるし、また、その創価学会の戦略に乗せられてしまった知識人も罪深いと言える。
では、創価学会を絶賛している当の文化人・知識人本人はどうなのか。そこまで創価学会を絶賛しているのなら、自身も創価学会に心服し、信者になるのかと思いきや、創価学会を宣伝している当の本人達は創価学会の信者になる事もなく、部外者のままだ。やはり、世間に対しては宣伝はするが、自分が学会員になるつもりはないらしい。つまり、そこまで信じる気にはなれないという事なのだろう。
要するに、創価学会を絶賛して宣伝している外部の知識人は、あくまでもビジネスの一環として創価学会と付き合っているという事なのだろう。
つまり、外部の文化人・知識人が創価学会を擁護し絶賛するのは、互いの利害が一致した商取引のようなものでしかないと見ておいた方が良いだろう。あくまでもビジネスなのである。それを純粋な信頼・友情・共感によるものと捉えてしまうと、創価学会の真の正体を見誤る事になる。
今月2日付の聖教新聞第7面にも、その佐藤優氏へのインタビュー記事が載っていたし、その左側にはテレビの討論番組で人気の金慶珠(キム・キョンジュ)・東海大学准教授へのインタビュー記事が掲載されていたが、そのように著名な文化人や識者を登場させる事によって、いかにも創価学会が外部の有識者から正しい宗教団体として認められているかのように演出しているのである。そのような演出はそのまま信じない方が賢明というものだ。


カルトを擁護する文化人・知識人

ワイドショーの報道でも韓国のキリスト教福音浸礼会のカルトぶりが日々明らかになっているが、それに比較しても創価学会がカルトである事は明らかだ。
しかし、このようなカルト・創価学会を擁護している外部のいわゆる文化人や知識人もまた少なからず存在している。特に近年目立って創価学会を擁護あるいは絶賛しているのが元外務官僚で評論家の佐藤優氏や政治評論家の森田実氏、脳科学者の茂木健一郎氏などである。佐藤優氏はキリスト教徒なのだそうだが、学会員ではないのかと思えるほどに池田名誉会長と創価学会を絶賛し高く評価しているようで、ついこの前にも創価学会の出版社・潮出版社から名誉会長とトインビー博士の対談本を絶賛する著書を刊行したばかりである。
外部の一部の文化人や知識人が創価学会を擁護し絶賛しているのは、1つには学会の実態を知らないという事がある。創価学会の実態は外部から眺めているだけでは判らないからだ。
それだけではない。外部の文化人・知識人を懐柔し手なずける為に、創価学会は特別に優遇するという戦略を使っている。
例えば、破格の講演料で釣って、学会のシンパにしてしまうとか、知識人に原稿依頼する時も破格の原稿料を支払うとか、そのように優遇する事で優遇された知識人も学会批判ができなくなり、擁護する側に回るという訳だ。
いずれにしても、これらはカルトの信者として苦悩している一般の学会員をないがしろにした行為であり、苦悩する信者を踏みつけにした行為であると言わざるを得ない。

なお、この記事の情報源はこちら⇒ 創価学会と極左動向


また、佐藤優氏を批評されているブログを見かけたので、参考にされたい方はこちらを参照していただきたい。

⇒  語り部のほとりで  

⇒ せと弘幸BLOG『日本よ何処へ』




  

カルトにそっくりな創価学会は当然カルトである

テレビのワイドショーでも韓国沈没船事故の報道で、船会社のオーナーが最高指導者をしているカルト教団についても報じているが、そのカルト教団は創価学会によく似ている。
キリスト教福音浸礼会というその教団は韓国では異端カルト認定されていて、多くの企業を擁して利益追求すると共に、信者からあからさまな金集めをし、不動産を買いあさり、政界などとのつながりがあり多くの既得権益を得ているなど、創価学会とそっくりだ。
しかも、片や仏教系、片やキリスト教系と思想的に違いはあるが、その教義解釈の歪曲の度合いは、片や「末法の正法」あるいは「仏法正義」を振りかざして犯罪行為でも正当化しており、片や「悔い改めなくても救われる」という歪曲した教義により、犯罪を行なっても罪にはならないとして正当化しているその危険思想性においてもそっくりだ。
カルトにそっくりな創価学会がカルトである事は当然の事で、これも創価学会がカルトである事の証拠だと言ってよい。



韓国船沈没事故から見えてきたカルト問題

このところ連日報道されている韓国船沈没事故だが、単なる船の事故では終わらず意外な展開になっているようだ。
この沈没した船会社のオーナーは実業家でもあり写真家でもあり、そしてキリスト教系新興宗教の最高指導者でもあるのだという。この宗教団体は韓国では統一教会や摂理と並ぶカルト教団として認識されていて、伝統的なキリスト教団からも異端視されているそうで、特に大学での強引な勧誘が問題になっているようだ。
この教団も他のカルトと同様に金にまつわる問題点が指摘されていて、この教団の最高指導者も大資産家で金が好きな人物として知られており、自分の撮影した写真をカレンダーにして関連会社の役員に高額で買わせたり、信者に巨額の献金を要求したりしているとされ、政界とのつながりにおいても、全斗煥元大統領の弟ジョン・ギョンファン氏と交友関係があったとされるなど、きな臭い情報が寄せられている。
この教団の根本的な問題点は、キリスト教では「悔い改め」を重要視しているが、この教団では悔い改めなくても救われれるという独自の教義を立てている事だ。この教団によって罪が赦されているから何をしても罪にはならないという考え方に陥ってしまう危険性がある。実際、この船会社の従業員の多くが信者なのだそうだが、客の人命軽視や安全管理のずさんさ、船長や船員の義務放棄などはその影響ではないかと思われる。
このように見てみると、カルトというのはどれもこれも似通っているものだ。金への執着、虚栄心、権力志向、それに元々の教義を勝手に解釈して歪曲する等々、どこでも同じような事をやっている。それは日本最大のカルトである創価学会も例外ではない。創価学会にも、これらカルトの要素が全て揃っている。特に近年は「御書根本」と力説していながら御書にもない事をあたかも仏教の根本思想であるかのように捏造して信者を欺いている。おまけに名誉会長の写真家きどりの部分も共通しているとくればもはやお笑いである。
いずれにせよ、今回の事故は、船会社の利益優先による人命軽視、船長と船員の責任感欠如、救難体制の不備、海洋警察の局長と船会社との癒着、被害者家族への高官の対応の不手際、そしてカルト問題等々、様々な問題点を浮き彫りにする結果となったようだ。



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