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創価学会に永遠不滅はあり得ない

筆者が学会員だった頃、「創価学会は永遠に不滅だ!」というナレーターの絶叫で終わる創価学会宣伝ビデオを見せられた事がある。今思えば苦笑するしかないが、盲信している学会員は本気で創価学会は不滅だと信じているのだろう。
勿論、創価学会が永遠不滅という事はあり得ない。が、創価学会が衰亡してゆくにはかなり時間がかかるのも確かではあるだろう。それは創価学会をしっかり支えている者がいるからである。
創価学会を支えているのは無論盲信的な学会員が主体だが、それだけではなく、外部の協力者によっても支えられている。
創価学会を支えている外部の協力者とは、1つは創価学会の財力によって手なづけられて味方になっている知識人や新聞社・テレビ局などのマスメディア、それに財界などがそれで、別に創価学会の思想に共鳴していなくても、金の力に服従し互いに利益を得て利用し合う為に協力しているのである。
もう1つは創価学会の集票力欲しさに協力している政界である。現在公明党と連立政権を組んでいる自民党の中にも「創価学会は嫌いだ!」と公言している議員がいるようであるし、そこまではっきり表明しなくても内心は創価学会・公明党を毛嫌いしている自民党議員は少なからずいる事だろう。しかし、それでも自民党は学会員の集票力に頼って政策方針が合わなくても切る事ができずに連立を組んでおり、それが続く限り、創価学会を擁護し支え続ける事になる。
このように、創価学会は信者から支えられ、外部からも支えられている訳だが、ただ、外部を手なづける元になっているのはやはり学会内部の信者なのである。
金の力で外部を手なづけるその財力は信者から吸い上げたものであるし、政界を手なづける為の集票力も信者の選挙活動に依っているのである。どちらにしてもどこまでも創価学会に服従し命令するままに動く盲目的な信者がいるからできる事なのだ。
外部の協力者達は創価学会の思想に共鳴している訳でもなく創価学会首脳陣の人間性に魅せられている訳でもなく、あくまでも創価学会の財力に魅せられて協力しているのであるし、政界でも創価学会・公明党を素晴らしい団体だと思って手を組んでる訳ではなく学会員からの票欲しさに手を組んでいる訳だ。
だから創価学会に財力がなくなり、集票力も落ちれば、マスメディアや財界や識者達からは金の切れ目が縁の切れ目で見捨てられるし、政界からは票の切れ目が縁の切れ目になる事だろう。
現在創価学会にはどこまでも言う事を聞く盲目的な信者達がいるとは言っても、そのような信者達も高齢化しており、世代交代してゆく事になる。世代交代後の信者達に同じく盲目的について来る者達がどれほどいるだろうか。
つまり、学会2世や3世などから学会離れが増えてゆけば創価学会の財力も集票力も落ちてゆくし、その時が外部の協力者からも縁を切られて見捨てられる時だという事になる。
当然ではあるのだが、学会活動家の後継者が減れば創価学会の盤石な基盤も崩れてゆく事になる。創価学会が衰亡してゆくにはまだ時間はかかりはするが、その時期は必ず来る事だろう。創価学会に永遠不滅などあり得ないのだ。

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哲学的思考とは程遠い創価学会

聖教新聞にまた興味深い記事があったので、それについて書いておきたい。
今月28日付の第12面「スタートライン」に「哲学的思考で人生が変わります。」という見出しの記事が掲載されていた。
近頃聖教新聞は紙面を一新したようで、今まで番組欄だった所に創価学会とは無関係な芸能界やスポーツなどの記事が掲載されるようになったらしく、この日は哲学についての内容になっている。
そこには、学会部外者と思われる哲学者の小川仁志氏へのインタビュー記事が書いてあるのだが、小川氏は社会的な活動への参加や貢献を呼びかけようとする実践的哲学としての「公共哲学」を研究分野にしているそうで、どうやら創価学会は、選挙活動や学会活動の実践によって社会と関わっている創価学会にこそ、公共哲学と共通している哲学があるという事を暗に言いたいようだが、しかし、創価学会が哲学と根本的に違うのは、小川氏が言っているように、哲学とは、本質に迫る為にまず「考える」事であるが、創価学会では考えるよりもまず「信じる」事が最重要視されている。
何しろ創価学会には「愚直の信心たれ」という指針があるくらいで、学会員は考えるよりもまず盲目的に信じてついて行く事が求められているし、むしろ自分の頭で考える事は「独覚」という低い境涯でしかないと見なしているほどであるが、このように、考えるよりもまず池田名誉会長及び創価学会を盲目的に信じる事を強要する創価学会に哲学というものはないと言える。
更にその記事には、「デカルトのようにその現象を疑い、思い込みを取り去る」とか「レヴィ=ストロースのように現象の全体像を把握し、いらないものを削ぎ落とす」とか「ヘーゲルのように対立した2つの物事を切り捨てる事なく取り込んで磨き上げる」事が小川氏が勧める哲学的思考のポイントとして紹介されているのだが、これもまた、創価学会では疑う事は許されないし、創価学会の無駄な活動を削ぎ落とす事も許されないし、他宗・他思想は謗法だという創価学会では対立する物事を取り込んで磨き上げるという事も許されない事であるから、そもそもそのような哲学的思考ができないのである。
そして、小川氏は「哲学する」とは「自分の頭で考え、様々な考え方の相手と対話し、しかもその議論では相手を全否定しないで対話する」事なのだと語っているのだが、これもまた、創価学会では信者は自分の頭で考える事は許されないし、折伏などでも相手の意見を全否定するのが創価学会なのだから、そのような創価学会で哲学的思考をするというのは無理と言うしかない。
創価学会は聖教新聞の記事に外部の哲学者を引っ張り出してきて、いかにも創価学会は哲学的な思考をしている宗教団体であるとアピールしたいようであるが、このような記事を書けば書くほど創価学会は哲学とは程遠い教団だという事を露呈してしまい、逆効果にしかならないようだ。


創価学会こそ最大のストレス

今月23日付聖教新聞の「暮らしのアンテナ」の紙面に「きょうのテーマは『ストレス』 視点を変えて向き合おう」という記事が掲載されていた。そこには、ストレスが感じられると心身にどういう変調が表れるかとか、どのようにしてストレスを乗り越えれば良いかといった事が書かれてあるのだが、この記事には1つ重要な事が抜けている。それは「創価学会こそ最大のストレスの元である」という事だ。実際、理不尽な学会活動のせいでストレスが溜まり、うつ病になってしまう学会活動家も多いそうだから、そういう学会活動家の為になるような記事を書くべきだろう。
そして現在学会活動にストレスを感じている活動家には遠慮なく学会活動を休む事を勧めておきたい。
何しろ、その聖教新聞の記事の中にはストレスへの対処法として、「休むことに罪悪感を持たないことも大事です。リラックスするための時間を積極的にとることをお勧めします」と書いてあるのだから、学会活動にストレスを感じている学会活動家は堂々と「バリ活」から「非活」になれば良いのではないだろうか。
筆者が学会員だった頃も、学会活動を休んだりすると幹部から「怠け者」どころか「非国民」のように言われたものであり、真面目な学会員ほど幹部からそのように言われると罪悪感を持ってしまい、無理してでも活動に出るものなのである。
しかし、その創価学会が聖教新聞に「休むことに罪悪感を持たないことも大事」と書いてるのだから、活動を休む事を遠慮する必要はない。
活動に引っ張りだそうとする幹部が来たら、「この聖教新聞の記事が目に入らぬか!!」とばかりにその聖教紙面を見せてやれば良いだろう。
聖教新聞にそう書いてあるのだから後ろめたく思う必要もないはずだ。

信者を欺く為の教学試験

創価学会では11月に教学部任用試験の実施が決定し、来月から受験申し込みが始まるのだそうで、任用試験の内容としては御書から3編ほど、そして宗祖・日蓮の生涯と十界論と一生成仏について、それから創価学会の歴史が出題されるのだそうだ。しかし、いくらそんな教学を勉強しても、学会活動の現場では宗祖・日蓮はどこへやら、池田名誉会長との「師弟不二」に「師への報恩」を刷り込まれ、それに選挙での票集めと聖教新聞の営業活動に財務への金策にと走り回る事に忙殺され、十界論がどうのこうのと考えてる余裕などなくなってしまうだろう。
聖教新聞には「なかでも任用試験は、日蓮大聖人の仏法を本格的に学ぶ第一歩であり、広布の人材に成長する出発点」と書いてあるが、実際は日蓮をダシにして日蓮の思想とは無関係な創価学会の営利活動にこき使っているのが実態だ。「日蓮大聖人の仏法を本格的に学ぶ」と言っても、日蓮の教えはダシに使われているだけでしかないのだ。
それでも少しでも自分の頭で考える人物ならば、教学で学んだ事と実際の創価学会の現場との違いに疑問を持つものだが、その矛盾点を幹部に質問しても圧殺されてしまうだろう。
筆者も学会員だった頃、「選挙戦は大聖人の教えにないのになぜしなければならないのか」と幹部に質問した事があるが、「選挙戦を通じて人間革命するんだ」とか言うばかりで、明確に日蓮の思想としての論拠を示せなかったし、納得の行く説明を聞いた事がない。
何も考えずに幹部から言われた通りに動く信者ならそれで良いかも知れないが、教学で学んだ事と実際の活動の違いに疑問を感じる信者はそこで悩む事になるだろう。
そこでいっその事、教学試験でも「公明党の票集めをする事が現代での仏道修行である」とか明確に教えれば良いのである。
創価学会公式サイトにも公明党との関わりや選挙戦について何も表記されてないが、そこにも「創価学会での仏道修行は公明党の票集めである。公明党の票をたくさん集めれば大功徳間違いなし」とか明記しておけば、信者も矛盾点に悩まなくて良いのではないか。尤もそうなると日蓮をダシに使えなくなるだろうし、付いて行く信者も激減するかも知れないが。
いずれにしろ、創価学会の教学試験なるものは創価学会の実態をごまかし、日蓮の教えに基づいた仏教団体であるかのように見せかける為の目眩ましでしかないのだ。

創価学会における人生の末路

創価学会では、退転者の末路は哀れで悲惨な死に方をするなどと信者に思い込ませているし、それを信じている学会員も多いようだ。しかし、筆者はこれまで退転した人や学会活動に生き切った活動家の生き様をそれぞれ何人か見てきたが、勿論、個々人によって人生航路は様々であり、全てとは言えないが、退転者の方がその後は自由と楽しさを満喫する人生が多く、学会活動に生き切った活動家の方が却って悲惨な末路になっている事が多いようだ。
例えば、筆者の親と近しくしていたM氏夫妻の場合、公明党議員だったM氏がガンで亡くなった直後、夫人は座談会で「今まで夫の浮気で地獄の人生だった」と告白して皆を仰天させた事があったと当ブログ記事に書いた事があったが、その夫人はその後も学会活動に熱心で、高齢で脚が弱っている為、シニアカー(高齢者用の電動車両)に乗って学会活動に出かけていたそうなのだが、ある日、いつものように学会活動に出かける為、シニアカーに乗って道路を走っていると溝に脱輪して倒れ、その時頭を打ってしまい、病院に搬送されたがそのまま亡くなってしまったのだという。
学会幹部は「どんな死に方をしても最後まで熱心に学会活動に生き切ったのだから成仏は間違いない」と言っていたそうだが、勿論それは学会幹部が希望的推測で断定しているに過ぎないのは言うまでもない。
当ブログはスピリチュアル思想がテーマではないので、死んだ時や死んだ後、当人はその時どう思っているかとか、どういう心の状態であるかという事には踏み込まないが、ただ、客観的に見れば、いつも創価学会が言っている事を当てはめるなら、M夫人は悲惨な死に方であり、悲惨な人生の末路という事になるだろう。
創価学会としては学会活動に生き切った学会員はどんな死に方をしても成仏したと言いたいだろうし、退転者はどんなに幸福そうな人生で終わっても「地獄に堕ちている」と決めつけたいものだ。
実際は当人がどういう心の状態であるかというのは当人以外には知る由もないが、少なくともはっきりしているのは、学会活動に生き切ったから平穏無事で人生が終わるとか、創価学会を退転したから悲惨な目に遭うなどとは言えないという事である。
M氏夫妻は悲惨な末路のように見えても学会活動に生き切って幸福だったのかも知れない。それは人それぞれだから、そういう人もいる事だろう。そしてそれはあくまでもM氏夫妻の場合の話なのである。仮に、学会活動に生き切ったM氏夫妻は亡くなる時幸せだったとしても、誰でもそうしなければならないという訳ではない。M氏夫妻のような生き方をしても苦しく不幸しか感じられないという人もいる訳である。
だから、学会活動に苦しみしか感じられないという人は無理して学会活動する必要もないし、創価学会にしがみついている必要もないのである。無理して創価学会にしがみついていても、M氏夫妻のような人生の終わり方になるかも知れない。その時、創価学会に無理して居続けてそのような目に遭って納得できるかどうかだ。
納得できないと思う人は創価学会から離れた方がはるかに増しというものだ。


『常勝関西』の言葉も虚しい関西創価学会

前回に続き、今月13日付聖教新聞の第一面についての論評を書いておきたい。
第一面左側に「関西 大阪 師弟常勝月間」という見出しの記事が掲載されていて、関西及び大阪の創価学会がいかに池田名誉会長の”師弟不二の祈りと行動”で、折伏の「不滅の金字塔」を打ち立てて「まさかが実現」の拡大を成し遂げてきたかという事を強調しており、その師弟常勝の”関西魂”を継承する為の月間で創価青年大会を決勝点に、弘教・聖教新聞の拡大、青年部の育成、新しい人材の拡大に挑めという号令を掛けているのだが、まずそれは無理だろう。
名誉会長が関西で折伏の指揮を執ったという1956年当時と現在では時代が違う。いくら”関西魂”とやらで”異体同心の団結”で獅子奮迅の戦いを挑んだからといって、1956年の頃のようにはいかない。
折伏の「不滅の金字塔」を打ち立てたのも、「まさかが実現」の拡大を成し遂げたのも、1950年代という、日本全体、日本人全体が戦後復興期から高度経済成長期への上昇機運に乗り、立ち止まって考える余裕もなくただがむしゃらに頑張っていた時代だからこそ出来得た事なのである。そのような時代だからこそ今から思えば無茶苦茶な布教方法であっても世間から非難を浴びながらも多くの信者を獲得できたのである。
そういう1950年代のような結果を、謂わば立ち止まって考えるような時期に入っている現代の日本で期待してもそれは無理というものだ。ましてや創価学会の正体も世間に広く知れ渡ってきており、特に近年はインターネットの発達に伴って今まで一般庶民が知り得なかったような情報も知られるようになっているのだから、そのような中で活動家が頑張っても、せいぜい聖教新聞は学会員が自分で何部も取って「部数が増えた」とか言ってお茶を濁す程度になるのだろうし、弘教拡大も青年部の人材育成拡大も期待外れに終わるだろう。
関西創価学会は選挙も負けた事もあり、もはや”常勝”ではなくなっているのだから、いつまでも”常勝関西”などと言い続けるのも恥ずかしいのではないか。
そのような関西の学会員も、会合で学会歌「常勝の空」を歌わされても虚しいだけではないのか?


創価学会に必要な「他者を思いやる心」

今月13日付聖教新聞の「寸鉄」欄に、「学会員は他者を思いやる心に満ちた偉大な庶民-識者。希望の力を社会へ」と書いてあったが、実際には、他者を思いやる心というよりも創価学会でのノルマを果たす為とか自分が福運を積みたいからという気持ちの方が多いだろう。
本当に他者を思いやる心に満ちているなら強引な折伏やしつこい選挙の投票依頼などはできないはずだ。
中には本当に他者を思いやる心に満ちた学会活動家もいるのかも知れないが、熱心な活動家になればなるほど自分の成果を上げるために迷惑な勧誘活動を続けるものである。
その「寸鉄」に書かれてある「識者」というのは、渡辺武達氏や茂木健一郎氏、佐藤優氏や森田実氏といった創価学会の御用学者や御用評論家の事ではないかと思うが、創価学会を一面的にしか捉えていないから、あくまでも創価学会側の立場に立った見方しかできないのである。
「思いやる心」と言うからには、相手側の立場に立って考える事も必要であり、自分の立場しか考えない創価学会及び活動家は単にはた迷惑な存在でしかない。
学会員が他者を思いやる心に満ちていると言うのなら、強引でしつこい折伏や選挙の投票依頼がいかに迷惑行為であるかという事に気付くべきである。そこにいつまでも気付けないで鈍感なままであってはならないだろう。

創価学会は「人間主義」ではなく「組織優先主義」

創価学会は「人間主義」なのだそうで、聖教新聞社の広告でも「ここに人間がいます」などというキャッチコピーを使っていたものだが、しかし実際には、創価学会は「人間主義」ではなく、「組織優先主義」なのである。
個々の信者よりもまず組織こそが重要なのであり、組織こそが信者個人よりも最優先されるのである。
そもそも仏教には出家者の集団(緩やかな組織)はあっても信者の組織というものは存在しなかったのであり、信者は直接出家者の説法を聴いて人生の糧としていた訳だから、信者としての組織というものは本来必要のないものであった。
仏教の場合、日本では特に戦国時代から信者の集まりとしての講の組織化が進められたそうだが(それ以前から講は存在していたが、まだ組織化はされていなかった)、それは戦乱の世の中で、各地域の寺院を信者が護る為に自主的に行なったのが始まりのようだ。それはあくまでも戦乱の世にあって、信仰する寺院を護る為の自主的な組織化であり、現代日本のような平和な世にあっては必須のものではない。
このように書くと、現代は大昔ののんびりしていた時代と違って何でも効率化しなければならない時代なのだから、信者の集まりも効率化する為に組織化しなければならないなどと言うかも知れないが、信仰や信心というのは心の問題であって効率化などする必要もないはずである。
信心する為に効率化が必要だというのは、一般の信者側ではなく、信者を管理する側、即ち池田名誉会長を頂点とする創価学会の職員側ではないか。学会組織の職員が信者を効率よく活動させ、新しい信者を獲得させ、出版物を買わせ、選挙活動に動員し、財務に寄付させるのを効率よく行なう為に組織化しているのではないか。それらはあくまでも組織の職員側の都合であって、一般信者側の都合でもないし、第一に一般信者には関係ない事ではないか。
それでも組織が重要だと主張するのなら、それは組織を敬う組織信仰に他ならない。
結局、創価学会は「人間主義」などという耳障りの良い言葉でカムフラージュしているが、その実態は人間個人の尊厳を無視した「組織優先主義」であり、信仰心を利用した「組織信仰」に他ならないのである。学会員は、創価学会が言う所の「1人ひとりを大切に」どころか、使い捨ての組織の歯車にされているだけでしかない。
勿論、同じ信仰をしている信者が自主的に寄り集まる集会などは構わないが、それを効率化する為だといって組織化する必要などどこにもない。たとえ純粋な信仰の為の集団であっても、そこに権力志向を持った者がいると、その組織を己の権力獲得の為や我欲に利用しようとするものである。それが今の創価学会の姿ではないか。創価学会は謂わば教団のプロである職員が自分達の財産を増やし権力を獲得してゆく為に信者を利用しているのであり、それを効率よく行なう為に鉄の団結を強要し組織化を徹底させているのである。創価学会が組織を優先させるのはそれが目的だからだ。
ちなみに、創価学会では唱題する場合でもせわしない早口の題目が流行っている(?)ようだが、これなども題目を数多く唱えると福運がたくさんもらえるという、数にこだわった創価学会ならではのご利益信仰により、より多く題目を唱えられるように早口で唱題しているのだろう。唱題さえも効率化している訳だ(笑)
いかにも創価学会らしい。




役に立たない公明党

「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のために戦い、大衆の中に入りきって、大衆の中に死んでいく」という言葉を結党精神として継承しているという公明党だが、果たしてどれほど大衆の役に立っているだろうか?

昔の公明党は日蓮の思想による宗教政党色を色濃く出しており、筆者が学会員だった頃も「王仏冥合」「仏法民主主義」を基にした公明党による「仏国土建設」「理想社会実現」を謳っていたし、「公明党が政治をする事によって社会は平和に繁栄し、誰もが幸福になれる社会が実現するんだ。だからその為に選挙ではしっかりエフを取れ!」と幹部から散々言われたものである。そうして、学会員は仏国土実現の為として選挙に動員されてきたのである。
時代が進み、今では公明党の綱領からは政教分離の建前上、宗教色のある言葉は削られているが、それでも公明党支援の選挙には学会員が当然のように動員されているのは変わりがない。
そこで最初の疑問に戻るが、大衆の一部である学会員が生活も家庭も顧みずに無報酬で支援活動をしてきたおかげで公明党は今や政権与党となっているのだが、果たして大衆の役に立っているのだろうか?
自民党との連立与党を組んでかなりの年数が経つが、公明党が与党となって社会も生活も良くなってると言えるのか?
公明党支援の選挙に駆り出される時は、公明党が政権を取ったらすぐにも理想の社会が実現し、バラ色の世の中になるような事を幹部から言われてきたが、自民党との連立とは言え、公明党が政権を取って数年経つがその通りになってるだろうか?
勿論、現実は理想とは違うし、理想通りには行かない事が多いのは確かだろう。だが、それならば学会員が家庭も生活も犠牲にするだけの値打ちが公明党支援にあるのかという事だ。学会員がそこまでして公明党支援の選挙活動をする必要があるのかという事だ。
公明党の政治に期待して学会員は全てを犠牲にしてでも公明党支援をしてきたのに、公明党はそれに応えていないのではないか。一部の学会員の為に公営住宅に優先して入居させたり、生活保護を優先的に手続きしたりして、それで「福祉の公明党」などとお茶を濁して良いのか? これでは大衆の為に役立っている政党とは言えないだろう。

現在公明党は集団的自衛権の行使容認を巡って連立を組む自民党に一歩も引かない構えを見せ、それで公明党の存在感をアピールしているつもりなのかも知れないが、それもポーズだけで終わりそうだ。
「大衆のために」というよりも利権の為に与党に居座り続けたいというのが本音だろう。
 
そのような公明党に失望している学会員も多いようだが、ただ、公明党支援の選挙活動をする事で功徳が得られるという幹部指導を信じている活動家も多くいるようだから、そのような学会員には公明党の政策や実績などは関係ないのだろう。このような学会活動家にとっては功徳さえもらえれば、公明党がどういう政治をしようが別に構わないようである。
そう言えば、去年の参院選でのテレビの選挙特番のインタビューに「選挙やると功徳が出る」と答えていた婦人部の老婦人は、その後、人に語れるような功徳が出たのだろうか? 訊いてみたいものである。


演技者としての人生

「人生を劇の如く!」とは池田名誉会長の言葉であるが、確かに名誉会長の人生はその言葉通り、劇中を生きる役者としての人生であったようだ。
ある時は命がけで世界を駆け巡る世界平和の指導者であるかのように演じ、
ある時は日蓮の生まれ変わりであるかのように演じ、
ある時はナポレオンの生まれ変わりであるかのように演じ、
またある時はベストセラーの文学者であるかのように演じ、
またある時は海外からいくつもの名誉称号を授与される大学者であるかのように演じ、
更にまたある時は全人類の師匠であるかのように演じ、
などなどなど、様々な役柄を演じて生きた演技者としての人生であった。
劇とは、そして演技者とは「見せかける」という事が重要なのである。
確かに名誉会長の生き様は、劇として「見せかける」人生であったと言える。
観客はその「見せかけ」の演技に目を奪われて、その真の姿が判らないものである。
しかし、今や名誉会長の見せかけの演技も通じなくなってきており、劇の舞台裏も暴かれてきているようだ。
今でも名誉会長の演技に目を奪われて心酔しているのは数少ない熱狂的なファンと、おこぼれに与ろうとする取り巻きくらいのものだろう。
今はその名誉会長が健在であるように見せかける為、創価学会のスタッフが必死になって演出している所であるようだ。
それと、名誉会長は生きている間にノーベル平和賞受賞者としての役柄も演じたかったのだと思うが、それは無理なようであるし、それが人生の最後を飾る為の演出にできなかった事が残念ではあるだろう。

創価脳とは

インターネット上では盲信・狂信している学会員の思考を「創価脳」と呼んでいる。誰が名付けたか知らないが、うまいネーミングである。確かにそのネーミングのように、創価学会の盲信者・狂信者の思考というのは何が何でも創価学会を中心にしてしか考えられないようであるし、創価学会に疑問を持つ事など夢にも考えられないようである。
「世界は創価学会の為にある」あるいは「世界は創価学会を中心にして回っている」というのが創価脳の考え方だ。それが創価脳の学会員にとっては常識なのであろう。
要するに、考え方が狭く、思考の選択肢も殆どなく、創価学会一色のワンパターンの考え方しかできないようだ。
つまり、「井の中の蛙」のように視野が狭く、それしか見えないし考えられないという状態になってしまうのだろう。
そしてこれもよく言われているように、創価学会が言っている事に対しては考えるという事をしない「思考停止」状態になる。
だから創価学会の言う事は全て正しいとしか思えないし、疑問さえ起きないのである。その為、幹部から言われた事には何も考えないでついて行くだけなのである。
そのように創価学会によって固定された考え方しかできないという事なのだ。それが創価脳なのだろう。
確かに信仰とはまず信じる事が基本だが、矛盾や疑問に思う事を無理やり信じる事は盲信となり狂信となってしまう。そうならない為に仏教には中道の教えがあるのではないか。仏教を名乗っていながら仏教の基本を守ってないから盲信・狂信となり、「創価脳」になってしまうのである。
創価学会では熱狂する事をあたかも信心が深いかのように、いわゆる「信心強盛」であるかのように言っているが、仏教は中道によって冷静に判断する事を教えているのであって、冷静さを欠いた熱狂的な信心は盲信・狂信へと陥る事になる。
何よりも、創価学会のせいで苦しみが生じているのに、苦の原因が創価学会にあるという事にも気が付かない。その為、創価脳に陥っている学会員は口では「学会の信心で功徳を受けた」「学会の信心で幸福になった」などと言うのだが、客観的に見てその創価学会のせいで苦しみに陥っている会員が多く見受けられるのである。
このような創価脳にどっぷりはまった学会員の考え方を変えるのは極めて難しい。本人が覚醒するきっかけを待つしかないようだ。




狂信学会員は創価学会の指導の賜物

前回の記事に狂信的な学会員の罵詈雑言ぶりについて書いたが、それは狂信的な学会員だけが悪いのではなく、その責任は創価学会自体にあるのは言うまでもない。聖教新聞や創価新報の口汚い罵詈雑言記事を毎日熱心に読んでれば、熱心な信者達も口汚い罵詈雑言を吐くようになるのは当然だろう。
何しろ池田名誉会長の真似をするのが「師弟不二」なのだろうから、その師の意を受けて汚い罵詈雑言を書き続けているのが聖教新聞や創価新報なのであるから、それを真似するのが師の血脈を受け継ぐ弟子としての本分だからだ。
創価学会によれば、敵対者に罵詈雑言を吐くのは「正義」なのだそうだから、創価学会を信じれば信じるほど汚い言葉を吐くようになるのかも知れない。
そういう意味で、狂信的な学会員が汚い罵詈雑言を吐くのは創価学会の指導の賜物なのであろう。

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