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「徳を積む」という観点から考える

筆者の母によると、学会員の伯父は創価学会の財務には生活が苦しいのに無理して何口もの寄付をしているようなのだが、町内会での各種の寄付(社会福祉協議会・日本赤十字社・赤い羽根・小さな親切運動・歳末助け合い等々)には目安金額よりも著しく少ない金額しか寄付してないそうだ。勿論、町内会での各種募金は強制ではなく、目安金額もあくまでも目安ではあるが、ただ、それなら創価学会にも何口も寄付する必要はないのだが、伯父が言うには、学会の財務に寄付すれば功徳があるが、一般の各種募金に寄付しても功徳はないからなのだそうだ(笑)
学会員は一般の各種募金についてはどう思ってるのか聞いたことがないから判らないが、盲信者・狂信者は伯父と同じような考えを持ってるのかも知れない。だから盲信してる会員は借金してでも財務に寄付してる訳で、それはひとえに功徳を受けたいが為ではあるのだろう。
しかし、それこそ本末転倒というものだ。「徳を積む」という観点から見るなら、歳末助け合いの募金や赤十字社の募金や社会福祉協議会の募金などがよっぽど世の為・人の為になる事であり、その方が「徳を積む」行為になるだろう。
翻って創価学会はと見れば、熱心な学会員は学会は正しい宗教だから福運が付くなどと思っているようだが、創価学会のような大金持ちに寄付してもそれは「徳を積む」行為にはならない。金持ちをより肥え太らせるだけの行為でしかないのだから、そこに徳を積む要素などないと言ってよい。ましてや、振り込め詐欺にせっせと金を振り込んでも世の為・人の為にはならないのと同様、創価学会のような宗教を騙った悪質企業に寄付しても悪を助ける行為でしかないのだから、徳など積めないし、ましてや功徳など出る訳もない。
寄付をする場合、世の中や人の為に役立つかどうかで考えれば、自ずとどれが「徳を積む」行為になるか判るはずだ。
創価学会にいくら寄付しても大金持ちの学会職員の役にしか立っていないし、第一、創価学会は社会の役に立つ所か社会の害にしかならないのだから、そんなものに寄付しても無駄でしかないのは当然だ。
こういった事が伯父を含めた盲信学会員には判らないようだ。あくまでも自分が功徳を受けたいという観点でしか考えてないからだ。


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「呪いの題目」についての一考察

前回、創価学会の「呪いの題目」について書いたので、今回もその続きを書いておきたい。
ある有名な反創価ブログのコメント欄に狂信学会員のブログが紹介されていたので、ここでも紹介させていただく。
そのブログでは「日顕打倒の鬼の祈り」の題目を唱えていた男子部員がアパートを追い出される事になったが、大家に立ち退き料を請求したら100万円せしめる事ができたという内容で、「日顕撲滅」の祈りを続けたおかげで最高の勝利を収める事ができたという体験談を書いていたのだが、いかにも創価学会らしい体験談である(笑)
但し、その体験談はそのブログ主本人ではなく、広宣部長の体験談なのだそうで、人から聞いた話だから今ひとつ信憑性に欠ける。
そのように、創価学会では公式サイトや機関紙には書かずに、学会組織の中で幹部の指導として「敵対者撲滅祈念の題目を唱えればすごい功徳がある」という話を流しているのだろう。そしてそれを真に受けたそのブログ主のような単細胞の狂信学会員が功徳欲しさに張り切って「呪いの題目」を唱えるのだろう。
それにしても、いくら幹部から言われたからといって、「呪いの題目」で祈れば功徳があるなどという話に疑問も持たないとは、あまりにも思考能力がなさすぎるのではないか?
少なくとも学会員は「世界最高の仏法哲学」を学び実践している自覚を持っているはずだが、人を呪う題目を唱える事に疑問も矛盾も感じないのか?
そこがやはり創価学会のカルトたる所以なのであろう。勿論、そのような創価学会の体質に疑問と不信感を抱いている会員も多くいるとは思うが、しかし、まだまだその創価系ブログの管理者のような狂信学会員も少なからず存在して創価学会の言いなりになってどこまでも付いて行ってるようだ。
そして、このような狂信者は、「呪いの題目」で功徳があると堂々とブログに書いても、それを信仰者として恥だとも思ってないようだ。そこが盲信・狂信の怖さでもある。




「心こそ大切なれ」の「心」が判らない学会員

創価系サイトを見て回っていると、御書の「四条金吾殿御返事」の中の「ただ心こそ大切なれ、いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたる・ほくちに・火をうちかくるが・ごとくなるべし」という箇所を引用しているブログがよく目に付く。
創価学会ではこの文にある「ただ心こそ大切なれ」の「心」とは、「勝利するという確信を込めた一念での祈り」という捉え方をしているようだが、問題なのは、その「心」がどういう状態であるべきなのかという事ではないだろうか。
創価系ブログの1つに、この文について「実際に大聖人の御書を学んでみると、神秘主義的な色彩は微塵も感じられず、最終的に「人としてのふるまい」を教えようとしていることに気づきます」と書いてあり、ここまでは「ただ心こそ大切なれ」とは「人としてのふるまい」として現われると、至極真っ当な事を書いていて、その後にも、「本当の意味で正しい宗教と言うのは、カリスマ性や神秘主義で人を従属させるものではなく、どのような「心の在り方」で生きたら本当の幸福に出会えるのか、を追求するものなのではないでしょうか」と続けているから、真っ当な事を書いてるなと思って読んでいったのだが、真っ当なのはそこまでで、その後は、池田名誉会長を礼賛する文章が綴られていた。
池田名誉会長こそそのブログに書いてある「カリスマ性や神秘主義で人を従属させるもの」ではないか。せっかく「心こそ大切なれ」の真意が判っていながら、名誉会長の「カリスマ性や神秘主義で人を従属させる」所に気が付かないとは呆れるばかりである。
「強い一念で祈る」という創価学会の「心こそ大切なれ」の解釈だが、その心がどういう状態であるかというのが重要ではないだろうか。
例えば、インターネット上ですっかり有名になった創価学会の「呪いの題目」だが、これなどはその「心こそ大切なれ」の「心の在り方」としての基準があいまいなままだから、敵対する相手に呪いの題目を祈るというような仏教者としてあるまじき行為へと歪曲されてしまっているのではないか。
日蓮が「敵対者を倒す為に祈れ、敵を撲滅する為の題目を唱えよ」と御書に書いているのか? 結局創価学会の勝手な解釈でしかない。しかも、創価学会は幹部にそれを指導させておいて、公式サイトや機関紙には一切書かない。あくまでも中間の幹部が勝手に指導してるだけと言って逃げる道を作っているのである。それにも気付かずに「敵対者撲滅祈念」の題目を一生懸命上げている学会員は何とも愚かしい限りである。
結局、創価学会の中にいては何が正しいのかが判らなくなるし、「仏法を実践している」と言いながら仏法とは似て非なるものを信じているに過ぎないのだ。
いつも「正義、正義」と叫ぶ創価学会に踊らされ操られているのは何も知らない末端の信者ばかりなりと言える。


面白い皮肉たっぷりの反創価ブログ

今回は、皮肉の効いた反創価ブログを紹介したい。
一見すると、盲信学会員が池田名誉会長と創価学会を賛美したブログのように思えるが、内容をよく見ると、称賛すると見せかけて創価学会をたっぷりと皮肉っている事が判る。

創価学会を笑いのめしたい人はこちらをクリック!
      ⇓   ⇓   ⇓

◎ 【世界平和】 池田大作大先生の神々しい画像集 【創価学会】 折伏大勝利!!

◎ 創価学会万歳!

どちらもその皮肉ぶりが素晴らしい。



検証される創価学会

戦後の日本で、これほど創価学会が巨大な宗教組織に肥大化できたのは、今までも書いてきたように戦後の物不足の時代に、豊かな経済社会を目指す大衆心理が、創価学会の主張する現世利益思想を受け入れてきたからであると言えよう。
そういう意味では、創価学会はうまく時代の流れに乗り、巧みに大衆心理に合わせてきたと言えるだろう。
そして、それが創価学会の強みであった訳で、物不足の時代に現世利益を求める大衆心理につけ込み、たとえ非常識で強引な布教であっても現世利益の功徳を欲しがる大衆に対してあくまでも強気で布教できたのもその故なのであり、そのおかげで教線を伸ばし日本最大の教団にのし上がる事ができたのである。
しかしそれは今までは創価学会の強みでもあったが、これからは弱点ともなってくるだろう。つまり、現世利益信仰は諸刃の剣でもある訳で、これまでは「学会で信心すれば生活が良くなる、仕事も良くなる、病気も治る、家庭も良くなる」などという宣伝文句で信者獲得できた訳だが、そういう現世利益というのは、明確な結果としての功徳論を語れば語るほど、その結果によって創価学会への評価も明確化してくるものである。創価学会が自信満々に「この信心をすれば生活が良くなる、仕事も良くなる、病気も治る、家庭も良くなる」などと大言壮語すれば、必ずその結果が検証される事になる。
「学会の信心に励んだが、果たして生活は良くなったのか、仕事は良くなったのか、家庭は良くなったのか」などと、創価学会が主張する功徳が実現しているのかどうかが問われる事になる。
勿論、それに対しては創価学会も用意周到に「功徳が出ないのは信心が足りないから」とか「功徳というのは短期間では判らない。10年20年30年と長い期間信心してゆく事によって大きな冥益を得る事ができるのだ」などと逃げ道を用意している訳で、今まではそれによって学会員の疑問や不信感を抑えこんで来たのであるが、しかし、それも限界に来ていると言ってよい。
戦後から70年近く経つが、その期間は創価学会が宣伝してきた現世利益の検証をするには充分な期間である。今、創価学会が主張する「功徳」に疑問を抱く学会員も多くなってきている。実際、自身の検証は勿論、「功徳が出ないのは信心が足りないからだ」と指導している幹部にさえもその功徳の姿が見られないという現実があり、よほどの盲信者・狂信者でない限り、もはや創価学会の「功徳神話」は崩壊してきている所ではないだろうか。
これが現世利益を強調する事のない、心の安らぎとか心の静けさを強調するような宗教であるならば、別に現実での利益があってもなくてもそれを検証される事もないのだが、あくまでも現世利益を強調する創価学会のような宗教は、その信心の結果を検証されるのは避けられない宿命でもあるだろう。今や創価学会はそれを検証されている時期に来ているのである。そして、いつまでも「功徳が出ないのは信心が足りないからだ」などというごまかしが効かなくなっている時期に来ているのである。



創価学会のあり得ない話

筆者は学会活動していた頃は地方都市に住んでいたのだが、その頃、ある会合で幹部が「今、東京の創価学会では部員指導に回る事もなく、会合の時もいちいち結集したりしない。学会員は自分から進んで会合に出て行ったり、幹部の所に指導を受けに行かなければ、もう誰も会合に連れ出しに来てくれないし、家庭指導にも来てくれない。そのうち東京だけでなく全国の創価学会もそうなるだろう。だからこれからは会合に自分から進んで出て行かない者はどんどん学会の組織から取り残されていってしまう事になる」などと言っていたものだった。
その頃は創価学会に疑問を持ちだしていた頃で、学会幹部の言う事も信用できなくなっていた頃だったので、その幹部の話を聞いても、関西弁風に言えば「ホンマかいな?」と半信半疑だったし、「もし本当なら東京に引っ越そうかな?」などと冗談に思ったりしたものだが、東京には知り合いの学会員がいなかったのでそれを確かめようがなかった。
今ではインターネットでそういう事はすぐ判るもので、実際、ネットで調べると、かつて幹部が言ったような事は勿論なく、東京でも創価学会は相変わらず頼みもしないのに活動家が会合の連れ出しやらアポ無し訪問やらをして非活動の学会員から嫌われ続けているようだが、それはそうだろう。よほどの盲信者・狂信者でもない限り、創価学会の会合に自分から進んで出て行くような酔狂な者はいないし、自ら進んで喜んで学会活動するような物好きな者はいない。それが当たり前だ。
今まで学会活動に出なかった会員が会合に出てくるようになるのは、しつこく連れ出しに来るから根負けして出て行くか、あるいは何度も何度も連れ出しやら家庭訪問に来るからそれが気の毒になり、断り続けるのに気が引けて顔を出すようになるというのが殆どだ。
つまり、そこまでしつこく連れ出しや家庭訪問をしなければ一般の会員は創価学会の会合に出て行く気も起きないし活動に参加する気にもなれないという事なのだ。
かつての幹部が言ったように、創価学会が会合の結集も家庭訪問もしなくなるならば、よほどの盲信者・狂信者以外の学会員なら、皆大喜びするであろう。そして、実際に結集も家庭訪問もしなくなったら、創価学会の活動家は今の半分以下に減ってしまうのではないだろうか。だから、創価学会が部員の連れ出しや家庭指導をしない訳がないのである。
勿論それが現実になれば多くの非活学会員は助かるだろうが、実際にはあり得ない話である。




学会2世3世の悩み

同じ学会員でも自分の意志で創価学会に入信した場合はまだ良いのだが、自分の意志とは無関係に親によって勝手に入信させられてしまった2世や3世などの場合は自分が学会員である事に納得行かない人も多い。筆者も学会2世なのでその気持ちはよく判る。
自分は創価学会と関わりたくなくても、学会組織に組み込まれてしまうと好むと好まざるとに関わらず近所の学会員とも付き合わされてしまうなど、創価学会の人間関係によってがんじがらめに束縛されてしまうものだ。
筆者の場合、学会員の親戚は2家族しかいないのでまだ良いのだが、親戚の殆ども学会員という人などは創価学会によって完全包囲されてるようなもので、創価学会を信じる事ができない人にとっては苦痛な人生以外の何物でもない。

アメリカのキリスト教の一派アーミッシュも信者の子供達は親によって入信させられてアーミッシュの共同体で生活しているが、16歳になると一旦親元を離れて俗世で暮らし、そこで一般世間の自由な生活を経験するのだそうで、そして成人になる際にアーミッシュであり続けるか、アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかを選択する事ができるのだそうだ。
一種独特の共同体での生活と厳しい規律で知られるアーミッシュでさえも、信者の子供は成人する時、以後もアーミッシュを続けるかそれとも離れるかを選択する自由があるのだが、創価学会にはそれがなく、学会2世や3世が創価学会の組織から離れるのは容易な事ではない。それが創価学会がカルトである証拠でもある訳だ。
創価学会が大好きだという2世や3世なら問題ないが、そうでない場合はそれだけで人生にハンデを背負っているようなものであり、一般人よりも無駄なエネルギーを費やしてしまう事になるものである。
筆者の場合、今は創価学会を脱出できているから平穏な状態ではあるのだが、親がまだ学会員である為、親の葬儀は学会葬になりそうで、それが今から憂鬱で仕方がない。
自分は創価学会から離れられても、家族に学会員がいる限り、まだまだ創価学会には悩まされそうである。

学会員が勘違いしている使命

創価学会では「使命」という言葉をよく使う。今月22日付聖教新聞の「寸鉄」にも「成長の汗光る全国の青年大会に喝采。さあ自身の使命の舞台で堂々前進!」と書いてあったし、幹部の指導でも「使命に生きよ」「使命を果たせ」「使命の舞台に立て」などと使う事が多い。では創価学会の使命とは何かと言えば、「日蓮大聖人の仏法を広宣流布する事」なのだそうだが、しかしそれは表向きの話でしかない。実際の活動はどうかと言えば、日蓮の教義にはない公明党支援の選挙活動、聖教新聞販売拡張、財務の戦い、それに池田名誉会長と創価学会を護る為の「師弟不二の戦い」が創価学会の活動となっている。
日蓮の教義は座談会などで付け足しのように使われたり、あとは教学試験や新会員への入門編として使っている程度で、選挙活動や聖教新聞販売拡張や財務の戦いと日蓮教学がどう結びつくのかが明確にされていない。
それは創価学会の公式サイト「SOKAnet」を見れば一目瞭然で、創価学会の公式サイトには選挙活動の事も公明党との関わりについても財務についても何も書いてない。それは、公式サイトには日蓮の仏法を広宣流布するという表向きの名目しか書けないからで、実際は日蓮の仏法を弘める事ではなく、創価学会、と言うより創価学会の職員を護る為の活動が目的だからである。実際の学会員の使命とは、職員の生活の為の活動をする事なのである。
その為の選挙活動であり、聖教新聞の販売拡張であり、財務の戦いであり、師弟不二の戦いなのである。だからそういう本音は公式サイトには出せないのだ。以前にも書いたが、日蓮の教えはダシに使われているだけなのであり、学会員は学会の本部職員に使われているだけなのだ。
聖教新聞を見ると、今月20日と21日の2日間で創価青年大会に4万人が集ったのだそうだが、そのようなイベントに参加して歓喜感動するのは良いが、それで仏法を広宣流布する使命の為に戦っていると思ってたら、結局は創価学会の職員達に利用されているだけという事になってしまうだろう。文字通り踊らされているのである。
創価青年大会のようなイベントを否定はしないが、それが仏法だとか仏道修行だとか思うのは的外れだ。文化祭にしても創価青年大会にしても、芸能界の紅白歌合戦とかかくし芸大会とかモノマネ大会のようなイベントあるいはお祭りにしか過ぎず、それ自体が人生の幸福とは直接関わるものではない。イベントに参加してその瞬間は歓喜感動するにしても、その時だけの事でしかない。まさに芸能界のイベントと同じようなものでしかないのだ。それを仏法とかましてや使命と勘違いするべきではないだろう。
所詮は創価学会が権勢を誇る為のイベントなのであり、そこに集う学会員はその為の駒でしかないのである。
それでも、芸能界を目指している人には良いのかも知れない。



常に「勝利」を求められる学会員

反創価サイトを見て回っていたら、とても秀逸な考察をされているブログがあり、共感を覚えながら読んだ。

それはこちらのブログ⇒ ないちょの雑記帳

そのブログは創価学会だけを扱っているという訳ではないが、創価関連の記事に優れた考察がされていて、その記事では心を病む学会員について書かれてあった。
それについて思うのは、学会員が心を病み鬱病になってしまうのは、常に幹部から「勝利」する事を求められるからだろうと思う。
確かに人生において、何事にも勝利する意気込みで生きてゆく事が理想ではあるだろう。しかしいつも理想どおりには行かないのが人生でもある。以前にも当ブログに書いたが、成功する人生もあれば失敗する人生もある。勝利する時もあれば敗北する時もある。いくら全力を尽くしても失敗する時もあれば負ける時もある。それが人生だと受け入れる事が必要な時もあるものだ。
それが創価学会のようにいつも「勝利せよ、勝利せよ」と求められ、その勝利の形として成果を求められる事によって学会員は常に心に負担を感じ、それが昂じて心を病むようになるのだ。
もう1つ、学会員が心を病む原因として、学会員には逃げ場がないという事がある。学会員は「創価学会こそ最も正しい宗教であり、この学会組織から抜けるのは”地獄の業なるべし”」という事を吹きこまれている為、学会組織と学会活動から逃げられないという固定観念によって呪縛されている。その為、創価学会の理不尽な命令に対しても逃げ場がない為にそれによって心を抑圧されてゆく事になるのだ。真面目な学会員ほどその呪縛に囚われてしまうようだ。
謂わば「創価マジック」と言える学会員を呪縛してしまうその思考法は、すでに創価学会の呪縛から離れて覚醒している人々からすればもはやゴミ箱に捨てるようなものでしかないのであるが、未だ創価マジックの思考法から抜けられない学会員にとっては、それこそ「地獄の業なるべし」という言葉に囚われてしまって身動きができないのであろう。
そのような学会員に言っておきたいのは、創価学会というものはそこまで真面目に考えるような代物ではないという事だ。
創価学会というのは「正法」とか「真理」などと考えるほど値打ちのあるものではないという事なのだ。
創価学会という枠組みでしか生きていないからその思考法から抜け出せないのである。創価学会という狭い視野しか持っていないから学会組織から離れられないのである。
創価学会の呪縛から抜け出せた人の多くは、広い視野を持つ事により、創価学会という狭い世界を俯瞰できるようになり、それによって創価マジックのまやかしから覚醒できたという人が多いようだ。
まずは創価学会を俯瞰できるような広い視野を持つ事を勧めておきたい。その為には、「創価学会だけが正しい」という考え方はゴミ箱にでも捨てた方が良いだろう。


世界平和の役に立たない創価学会

「世界平和」を掲げ、「世界から多くの「国家勲章」「名誉市民」称号、学術・文化・芸術・教育機関からの顕彰などを贈られている」といかにも平和への貢献によって世界中から称賛されているかのように自慢している創価学会だが、実際には具体的な平和への行動が見られない。
創価学会では池田名誉会長が世界の識者と対談し、平和への提言を行なっている事をもって「世界平和の行動」だと宣伝しているが、安全な場所で識者と対談しているだけでは具体的な平和への行動とは言えないだろう。戦争や紛争が起きた時、実際に和平への行動を起こせるかどうかによってその真価が問われる事になる。
創価学会によれば、現在池田名誉会長は姿は現さなくても元気なのだそうで、原稿執筆にメッセージ執筆に和歌を詠むなど精力的に活動しているそうだから、それならば、イスラエルとガザ地区(ハマス)の紛争やロシアとウクライナの問題、シリア騒乱など現在も続いている世界の紛争や国家間の対立に対して和平交渉に出て行ったらどうなのか。それでこそ「世界平和の指導者」だと胸を張れるのではないか。
それよりも創価学会は、チベットが中国から迫害されているのに、それに対しては「我関せず」とばかりに見て見ぬ振りをしているだけでなく迫害している方の中国と仲良くしようとしている有り様だ。
これでは世界平和に役立っているとは言えない。どころか世界平和を阻害しているとしか言えないだろう。
世界平和は安全な場所で著名人とただ喋ってるだけでは実現できない。具体的な和平交渉もできないのなら「世界平和の指導者」などと大口は叩かない方が良いだろう。


虚勢を張る創価学会

今に始まった訳ではないが、創価学会は活動家離れを食い止めるのと新入会者を増やすのに必死のようだ。
ここ数日の間の聖教新聞を見てると、「学会活動が楽しい!」とか「教学を学べば、そこから広布の人材が育つ」とか「”任用試験をきっかけに友人が入会しました”という報告をどの地域に行っても伺います」とか、いかにも学会員が楽しんで学会活動に参加しているかのように書いたり、また、創価学会には陸続と人材が育ち新入会者が増え続けているかのような記事を掲載しているのだが、勿論、聖教新聞は大本営発表であり、このような謂わば虚勢を張っている創価学会の内情を知る学会員にとっては虚しいだけではないのか。
これから創価学会が衰退してゆく事はあっても人材と新入会者が増える事はない。
かつて知り合いの地区部長が「学会活動は楽しいぞ。また学会に戻ってこいよ」と、脱会後の筆者に負け惜しみを言った事があったが、学会活動と財務の為に生活が疲弊している学会活動家が、本音で「学会活動は楽しい!」などと思えるはずもなく、もし負け惜しみでなく本当にそう思ってるとすればあまりにおめでた過ぎるのではないか。
その地区部長に限らず、活動家の多くは会合ではいかにも福運に満ちているかのように元気良さそうな様子を見せているのだが、実生活では学会活動に圧迫されて疲弊しているのが実際の所だろう。しかも生活に困窮しても創価学会は助けてはくれない。それこそ「信心が足りない」という指導で終わりである。
どんなに学会活動に真剣に取り組んでもそれで人生が良くなる訳ではないし、ましてやその為に生活に窮しても創価学会は助けてくれないという事に学会員もいい加減気付いてはどうだろうか。

創価学会での常識は世間での非常識

「創価学会での常識は世間での非常識」とはよく聞く言葉である。
学会員の多くは基本的には悪い人間はいないのだが、創価学会という組織にいると非常識な人間になってしまうものである。例えば学会員の非常識の1つとして「アポなし訪問」がある。学会役職者・活動家が、会合に出てこない部員の家に事前に連絡しないでいきなり訪問する事である。これは非活動の学会員からは非常に嫌がられる行為である。非活の学会員だけでなく世間一般でも嫌がられる行為であるが、創価学会では当然のように行なわれている。
筆者が男子部員の頃、特に重要な会合を控えている時などは、地区幹部らに引っ張り出されて数人で部員回りをさせられたものだが、その際、夜、部員が帰宅する頃に部員宅に行き、窓に明かりが灯っているかどうか確認したり、明かりが灯ってない時は電気メーターの動きを見て留守なのか居留守なのかを判断していたものである。そしてまだ帰宅してない時はそこでしばらく帰宅するのを待っていたりしたものである。後で思えば、まるで逃亡犯の張り込みのようだった。
地区幹部達も「この時間に行かないと〇〇を捕まえられない」とか「事前に連絡して訪問すると逃げられるからいきなり行かないとだめだ」とか言って、これまたまるで犯人でも捕まえるような言い方をしていたものだった。
このような創価学会で活動していると、それが当たり前のようになってしまい、部員回りする時も「正しい宗教の活動だからいきなり訪問しても構わない」という非常識な人間になってしまうものであるし、相手が迷惑していても、良い事をしてやったつもりになってしまうのである。
「朱に交われば赤くなる」とはこの事で、普段は常識ある人間でも学会活動になると非常識を常識と思い込んでしまう怖さが創価学会という組織にはあるという事だ。
聖教新聞には「1人1人の部員を大切に」とか「学会員全員が幸福に」とか「学会活動は常識豊かに」とか建前ばかり書いているが、創価学会の現場では非活の部員1人1人の幸福などというものは考慮されておらず、組織活動や会合への参加人数目標の動員という見方しかされていないのであり、あくまでも組織の歯車という存在でしかないのである。
このような創価学会で「常識豊かな人間主義」など望んでも無理でしかない。


創価学会に見るマーケティング戦略

ウィキペディアによれば、マーケティングとは、企業や非営利組織が行うあらゆる活動のうち、「顧客が真に求める商品やサービスを作り、その情報を届け、顧客がその商品を効果的に得られるようにする活動」の全てを表す概念だそうで、いわば、相手にとって価値ある提供物を創造・伝達・配達・交換するための活動だと言い得るのだが、「マーケティングは宗教に学べ」と言っている専門家もいるほど、宗教の布教方法とマーケティングには共通した部分が多い。
「宗教とマーケティングを同じように考えるのは聖なるものへの冒涜だ!」と言われそうだが、宗教的な概念やその拡大手法がマーケティングに取り入れられている事はよく知られた事実である。
勿論、宗教の布教には元々マーケティング的な考え方があったと言っても、元々の宗教は物を売りつけたり儲けたりするのが目的ではなく、マーケティング理論に当てはめるなら「人生に苦しんでいる衆生が真に求める救いの教えを説き、その教えを多くの衆生に弘める」という方法論であった訳で、人生に苦しみを抱いている人々を救おうという考え方が根本にあったのは確かだろう。それが宗教の始まりだったのだと思う。
しかし、そういう宗教の歴史の中で、信仰の名目を使って権力を得たり、金儲けするような堕落した宗教家も現れてきたのも事実だ。
そしてその金儲けを目的にして徹底したマーケティングを導入しているのがカルト宗教だと言える。中でもそのトップの位置に立つのが創価学会だと言えるだろう。創価学会の組織にしてもその活動実態にしても、まさに悪質商法の企業経営マーケティングそのものである。
創価学会のマーケティング手法としては、この信心でしか幸福になれないとかこの信心で成功できると信じこませて信者にし、その信者に「救われたければこの教えを弘めよ」と号令を掛けて布教拡大を行なわせ、新聞書籍や民音の公演チケットなども売りつけ、のみならず、それらの販売セールス活動もタダ働きで行なわせ、選挙活動でもやはりタダ働きさせ、その上「供養すればするほど功徳がある」と煽って財務で貢がせるという手法によって、創価学会上層部は信者に号令を掛けるだけで組織拡大と莫大な収入を得られる仕組みを作り上げている。更には、外部の著名人を懐柔して広告塔として使い、創価学会が世界の著名な識者からも絶賛されているという宣伝に利用したり、新聞・ラジオ・テレビに広告やCMを出してメディアを支配するなど、財力にものを言わせる手法で 創価学会の地盤を固めている。
この場合、マーケティングの商品に相当するものが「功徳」なのである。盲信している信者は功徳欲しさに弘教に邁進し、新聞書籍も多部数購読し、選挙活動でも無償で票集めに奔走し、そして功徳欲しさに財務に貢いでいる。全て功徳を得る為なのであり、功徳欲しさに矛盾も疑問も抱かずにタダ働きもするし、売りつけられたものもいくらでも買うし、財務には借金してでも資産を差し出しているのである。
宗教学者の島田裕巳氏もツイッターで「創価学会は、会員が手弁当で活動する組織を作った。しかも、財務までする。どうやったらこんな組織が作れるのか。これ自体驚異だ」とツイートしているように、まさに悪質業者や詐欺師が手本にしたいシステムを作り上げているのが創価学会だと言えよう。
そして問題なのは、創価学会が大々的に宣伝しているマーケティングで言う「商品」としての「功徳」が、実際には殆ど信者には得られていないという事なのである。多くの学会員が学会活動の為に犠牲を強いられ苦しみを感じているというのが事実であり、苦しみしか感じられないものは「功徳」とは言えない。結局、「功徳」をエサに学会員はカモにされているだけなのである。
ただ、このような創価学会のカラクリに気付いて学会組織から離れる信者も近年は増えてきている。まだまだ創価学会のマーケティング戦略に掛かって操られている学会員が多いとは言え、少しずつではあっても、悪質商法の組織が崩れだしているのも事実だ。創価学会に苦しみしか感じられない学会員は早くこのカラクリに気付くべきだ。





聖教新聞記事での迷言

7月11日付聖教新聞の「信仰体験」のページに大きな見出しで「夢が叶うけん信心は、やらんと損よ!」と書いてあったが、この見出しには思わず笑ってしまった。「選挙やると功徳が出る」と並ぶ創価学会迷言の1つになりそうだ(笑)
その言葉は創価学会を全く知らない人間には有効かも知れないが、創価学会の実態を知っている人々からは嘲笑されるだけだ。「夢が叶うけん信心は、やらんと損よ!」と言われて信心始めたら却って大損するだけだろう。
本来仏教は夢を叶える為とか成功する為にあるのではなく人生での苦を克服する為の教えであったのが、創価学会ではあたかも勝負に勝つ事や成功する為や成果を上げたりする事が仏教の目的であるかのように歪曲してしまっている。
勿論、夢を叶える原動力としての信心を否定はしないが、それを売りにして信者を集めるという所に邪さが現れているのである。
人生は人それぞれで、夢の叶う人生もあれば夢が叶わず挫折する人生もある。信心したからといって、誰もがビル・ゲイツのように夢を叶えて成功できる訳ではない(しかも、ビル・ゲイツは学会員ではない)。
それをあたかも創価学会で信心すれば必ず夢が叶うかのような誇大広告を出す事が問題なのである。
夢が叶うにしても叶わないにしても、成功するにしても成功できないにしても、どのような人生になってもその人生を支える杖となるものが信仰であり信心というものだろう。信心とは単に夢を叶える為の手段や道具ではないはずだし、第一、信心を夢を叶える為の手段と思い込んでもそれで必ず成功できるという訳ではないし、夢を実現できるという訳ではない。
それよりも、創価学会では夢を実現する為にはしっかり学会活動しろと幹部から号令を掛けられ、組織活動にこき使われ、財産を搾り取られ、夢を実現してもしなくても大損する事になる。
この聖教新聞の迷言を見て「やらないと損なら、学会に入って信心してみようかな」などと思う物好きな人などいないだろうが、もしそういう気持ちのある人は、損するだけだからやめといた方が良いだろう。




創価学会内にも世代間ギャップ

「今どきの若者は‥‥」とは、いつの時代でも老人が若年者に言う言葉であるが、創価学会内でも同じような事を目にする時がある。筆者が男子部で役職者だった頃も、「我々の頃はこういう事をやった、ああいう事もやった。それに比べると今どきの男子部はどうのこうの」などと古参の壮年部員から皮肉混じりに言われたものである。
要するに自分達がどれだけ池田名誉会長と創価学会に尽くし抜き学会活動に戦い抜いてきたかという事を自慢したいのだと思うのだが、そういう考えに固執している信者がいるからいつまで経っても創価学会から利用され続けるのである。
筆者の学会員の伯父もそうなのだが、古くからの信者は昔の創価学会を自己の信心の原点とし、それを頑固な程に守り続けようとする者が多い。例えば、謗法思想にしても、今では創価学会の謗法観も変わってきており、町内会の祭りは「宗教的な意義が薄れてきている」として、却って公明党のエフ票狙いの為の友好活動として黙認するようになっているのだが、伯父などは未だに神社の鳥居をくぐるのも祭りに参加するのも謗法だと思い込んでおり、昔から町内会の祭りに参加していた筆者の父について「あんな謗法してたらそのうち悪い事が起きる」などと陰で(筆者の母に)言ってるのだそうだ。
こういう調子で古くからの学会員は、昔の創価学会から受けた指導をそのまま真に受けていつまでも頑なに信じ守り続けていて、そういう自分の事を「信心強盛」と思い込んで自分に酔っている所があるようなのだ。
頑固というか考えが足らないというか、要するに臨機応変さがなく、昔言われた事を守り続ける事しかできない為、自分の頭で考えるという事ができないのである。まさにプログラムされた事しか思考回路にないかのようなロボット人間となっている訳で、マインドコントロールと言うも洗脳と言うも同じで、結局このような自分の頭で考えられない人間になってしまう事なのである。
そして、このような思考回路の古くからの学会員がいる限り、創価学会の中で組織信仰の弊害に対して意識を変えようとしても、それを阻止する存在になってしまっているのである。
実際の所、創価学会の組織に身を置いたまま組織のあり方を変えようとか組織を改革しようとか思っても、それは無駄な事でしかないが、それに加えて創価学会に尽くす事を「正しい信仰」と思い込んでいる古くからの信者がいる限り、組織内に改革心を起こす事は無理だと言わねばならない。
つまり、創価学会に疑問を持ったら、組織内を改革してやろうなどと無謀な事は考えず、さっさと出て行くのが早道だという事だ。


創価学会の便利な言葉「信心が足りない」

少し前にクロさんのブログ『真実と幻想と創価学会』に、学会幹部が会員を指導する時よく口にする「信心が足りない」という言葉について書かれていたが、確かに「信心が足りない」という言葉ほど便利な言葉はない。
創価学会は学会の組織から離れる事なく活動に励むならば大功徳間違いなしと自信満々に広言しているが、実際には、学会員が自分の生活をも犠牲にして幹部から言われるままに活動に励んでも、功徳とやらが出てくる事は殆どない。それどころか、題目を唱えた事もなく学会活動などした事もない学会部外者よりも悲惨な人生となっている学会員の方がよほど多いのが現実の姿だ。
そのような時、学会幹部が口にするのが「信心が足りないからだ」の一言である。これほど便利な言葉はない。
「創価学会で信心すれば大功徳間違いなし!」とどんなに大風呂敷を広げても、そしてそれが実現できなくても、「それはまだ信心が足りないからだ」と言っておけば創価学会側は責任を取らなくて良い訳だ。何でも信者側の信心不足のせいにしておけば学会幹部も責任を取らされる事もなく気楽に指導ができるというものだろう。
創価学会はこれまでこのようなまやかしで信者を操ってきたのである。信者側もいつまでも騙される人生と歴史に終止符を打たなければならない。「人生は学びである」とはよく聞く言葉であるが、学会員もこれまでの創価学会での人生で学ぶべきだ。

創価青年大会に想う

創価学会では現在各地で創価青年大会が行なわれているそうだ。歌ったり踊ったりといった演目に参加するなど、昔の文化祭のようなものなのだろう。
創価学会の文化祭と言えばどうしても北朝鮮の芸術祭を連想してしまう。それほど両者はよく似ている訳だが、どちらも独裁者が自分の権力を誇示するのが第1の目的なのだろう。片や信者、片や人民という違いはあるが、どちらも独裁者の為に一致団結させ命令に従わせるという独裁者の権力欲を満足させるのが目的だ。
勿論、創価学会では創価青年大会の意義として「青年の若き力と情熱で世界広布新時代を拓きゆく歓喜と躍動を現し、それによって人材育成してゆく場である」などともっともらしく力説するところではあるが、その文化祭にしても創価青年大会にしても、信者が信心の歓喜の表現として自発的な盛り上がりとして行なうのなら問題はない。つまり、そういったイベントが好きな者は参加する、嫌いな者は参加しなくてよいというのなら問題はないが、創価学会では北朝鮮と同じく、上からの命令で半強制的に参加させている事が問題なのである(創価学会は強制参加はないと言ってるが、参加したくない信者を説得して参加させているから半強制なのである)。
そして信者をそのようなイベントに参加させるもう1つの目的は、体育会系の熱狂的でハイテンションな雰囲気によって冷静な判断を失わせ創価学会の活動に従わせるというのが狙いなのである。カルトがよく使う手だ。
青年層が年々減少し続けている創価学会としては、この創価青年大会によって何としても青年部拡大を図って行きたい所ではあるのだろうが、もはやそういう学芸会のようなイベントで青年層拡大などできない時代に入っている事を自覚すべきだ。それほど創価学会の悪名は世間に知れ渡っているという事だ。
果たして、このイベントへの参加者のうち、どれほどの青年部員が活動家として残るだろうか。結果が楽しみである。

創価学会に正義はない

6日付聖教新聞第1面に、「正義ならば勝て」という見出しで池田名誉会長が書いたとされる文章が掲載されていた。
どうやら、集団的自衛権行使容認に公明党が合意した事を受けて動揺している学会員がいるようなので、次の選挙戦に向けての組織引き締めと号令の意味合いがあるのだと思うが、「善人とは、悪と戦っている人である」という箇所があるから、創価学会にとっての「悪」即ち日蓮正宗と戦えという号令でもあるのだろう。
それにしても「善人とは、悪と戦っている人である」というのは創価学会の勝手な解釈でしかない。創価学会にとっての善人とは創価学会の為に奴隷のように働き、創価学会を護り、敵対関係にある相手と戦う者が善人なのであろう。
そして更に善人とは「外の悪と戦うことによって、自分の内なる悪を浄化している人のことである」とも書いているのだが、これもまた勝手な解釈でしかない。
かつて聖教新聞紙上で敵対者を徹底した罵詈雑言で罵倒し、創価学会が言う「極悪」との戦いで華々しく活躍していた弓谷照彦元男子部長は、その後、不祥事で男子部長を解任されているが(不祥事の詳細な内容についてはすでに反創価の間では広く知られているのでここでは省く)、これなどは外の悪と戦っても自分の内なる悪を浄化できなかった典型例だと言ってよいだろう。
創価学会の言い分からすれば、弓谷元男子部長はとっくに人間革命し素晴らしい人格者になっているはずなのだが、実際は創価学会の信心をした事もない一般人よりも浅ましい事をしでかしてしまった。
尤も、創価学会が規定する人間革命は世間一般の考え方とは違うという事はあるが、それでも、弓谷元男子部長の不祥事には池田名誉会長も激怒したそうだから、創価学会においても「悪行」には違いないようだ。
このように自分を正す事もしないで外敵と戦っただけで自分の悪を浄化できる訳がないのは当然の事だ。
創価学会は自分の内側に目を向けず常に外にしか目を向けないから自分を浄化する事もできないのだ。
その聖教新聞紙面には「7月には権力の魔性と戦う師弟の闘魂が刻まれている」と書いているが、自己浄化ができない団体だから今では創価学会が権力の魔性そのものになっている訳だ。
このような創価学会に正義はない。


聖教新聞の突っ込み所

聖教新聞の記事はいつも突っ込み所満載だが、今月4日付の紙面にも突っ込み所があったので書いておきたい。
まずは第12面「エンターテインメント」のページに、封切りされる洋画の紹介が書いてあるのだが、その中の「ダイバージェント」という映画の紹介文の中に、「最終戦争から100年後の未来、人類はたった一度の”性格診断”で5種類の共同体に分類され、”異端者”と診断された者は抹殺される運命に。異端者として命を狙われるベアトリスを通して、人は”どこに所属するか”ではなく、”どう生きるか”が大事と教えてくれる」とある。
これまで創価学会は学会に入信し学会の組織に属さなければ救われないと主張し、「学会員にあらずんば人にあらず」とばかりに学会組織に属さない人間を責め立てて入信を迫まってきたし、入信しても学会の組織活動に従わない信者を「退転者」として見下してきた。
聖教新聞の編集者も今までその創価学会の主張を記事に書いてきたはずだ。それが今回の記事では「人は”どこに所属するか”ではなく、”どう生きるか”が大事」とは?
信心の記事ではなく映画紹介の記事とは言え、これまでの創価学会の主張ややってきた事と正反対の事を書いて何とも感じないのだろうか。
その記事に書いてあるように、「人は”どこに所属するか”ではなく、”どう生きるか”が大事」なのである。創価学会という組織に属す事は重要ではないのである。まさにその通りではないか。それを映画紹介記事ではなく、信心の記事にも書いてもらいたいものである。
それともう1つは第1面の、例によって例の如しの池田名誉会長への名誉称号授与の記事で、アルゼンチン・コルドバ州のラ・ファルダ市から名誉会長に「卓越した人物」証が贈られたそうで、『決議書|不撓不屈の人間主義者』との見出しを掲げ、続いて本文では、「その決議書に池田名誉会長は不撓不屈の人間主義者、仏教哲学者、作家、エッセイスト、写真家、教育者であり、世界の識者との対談集が多数の言語に翻訳されている事や、世界の大学・学術機関から名誉学術称号を受けている事実が明記されている」と自慢気に書いてあるのだが、「不撓不屈の人間主義者」は「不撓不屈の強欲主義者」の間違いではないのか? それと「作家、エッセイスト、写真家」などは「ゴーストライター付きの作家、エッセイスト、写真家」の間違いではないのか?
というように、実に突っ込み所満載である。聖教新聞を読んでも学ぶ箇所は殆どないし、読むべき箇所もないが、時間つぶしに突っ込みを入れて笑いたいという人にはお勧めかも知れない。

「人間的に素晴らしい」というだけで入信する危険性

創価学会に入会した学会員の入信動機の中に「自分を折伏した人が人間的に素晴らしいと思えたから。そしてこんな良い人が信仰している宗教なら間違いないだろうと思ったから」というのがある。
だが、単に自分を折伏した人が良い人だからという理由だけで、その人物が信じている宗教をよく吟味しないまま信じ込み入信してしまうのは危険である。
確かに創価学会にも良い人や素晴らしいと思える人物はいるだろう。というより、暴力団ではないのだから信者に善人がいるのは当たり前ではある。しかし、別に学会員でなくても善人や素晴らしい人物はたくさんいるのだし、学会員以外は皆悪人という訳ではないのだから、学会員を特別視する必要もないだろう。
それよりも、たとえ自分を折伏してきた学会員が素晴らしい人物だと思えたとしても、その学会員が創価学会を運営している訳ではないという事だ。信者には善人が多いといっても、創価学会自体は善人ではなく、宗教の名を利用した悪質商売人によって運営されているのだから、信者の善人の姿だけ見て入信してしまうと後悔する事になるだろう。
しかも創価学会は蟻地獄と同じで1度入ると容易には抜け出すのが難しい組織だ。
まずは創価学会はどういう団体で世間からどのように評価されているのかを詳しく調べる事が重要だ。
折伏してきた学会員が素晴らしい人物であっても、入信を断わって人間関係が壊れてしまうのなら、その学会員は大して素晴らしい人物でもないという事になる。入信を断わっても今までと変わらず付き合える人物なら本物の素晴らしい人物と言えるし、別に創価学会に入信しなくてもそのまま付き合えばいいだけの話だ。
現在創価学会に入ってはいないが、素晴らしいと思える人物から折伏を受けているという人は、そういった点を考慮して判断した方がいいだろう。それに、折伏している間は良い人ぶっているが、相手が入信してしまうと手の平を返したような態度を取る学会員もいるようだし、入信後その人物と一緒に学会活動するようになったら次第に欠点が見えてくる場合もあるし、却って入信しないで付かず離れずの程良い距離感を保って付き合う方が互いに良い人間関係が出来るだろう。
それでも遮二無二にあるいは強引に入信させようとしてきたらその時が離れるべき時だ。所詮は創価学会に引き入れるのが目的だったのだと知るべきである。


プレッシャーがかかる「常勝関西」

今月2日付聖教新聞第1面に、「常勝関西が代表幹部会」の大見出しで記事が掲載されていた。常勝関西の原点である「7・3」「7・17」を記念する幹部会なのだそうだが、そこには相も変わらず姿を見せない池田名誉会長からのメッセージも添えられている。
また、翌3日付の同紙「この時に誓う」というコーナーでは、「「常勝」こそ関西の永遠の使命」との見出しで山下関西婦人部長へのインタビュー記事が掲載されており、その中で「「常勝」こそ関西の誇りであり、永遠の使命です」と書いてあるのだが、このように書かれると、関西の学会員にとってはプレッシャーをかけられて迷惑ではないだろうか。
少し前の記事にも書いたが、関西創価学会は選挙に負けた事もあり、もはや常勝ではなくなっているのに、聖教新聞第1面にことさら大きく「常勝関西」との大見出しで強調して書かれたり、「「常勝」こそ関西の誇りであり、永遠の使命」などと書かれたのでは、万一選挙戦などで負けてしまったらどういう立場になるのか、と関西の学会員も戦戦恐恐ではないだろうか。
特に公明党が集団的自衛権の限定容認に合意して反対の声が多数上がっているだけに、次の選挙は危ないのではないだろうか。
いずれにしても筆者には関係ない事ではあるが、聖教新聞の相変わらずの「常勝関西」の見出しを見て思った次第である。

公明党の決定に動揺する学会員

「平和の党」を標榜している公明党が集団的自衛権の行使容認に合意した事で、学会員の間にも動揺が拡がっているようだ。インターネットでこの件に関して創価学会関連を見て廻ると、公明党の方針は全て正しいとする思考停止型の学会員がいる一方で、公明党の決定に怒りの声を上げている学会員も少なからずいるようだ(参考ページ⇒ http://6604.teacup.com/yoshihiko/bbs)。
そこで、この件について、近頃創価学会・公明党を絶賛していた政治評論家の森田実氏はどう考えているのかと思い、森田氏のホームページを見てみると、「2014年7月1日は平和憲法が安倍首相と自民、公明両党によって葬られた日として歴史に刻まれるでしょう」「平和憲法を回復するために、直ちに7.1閣議決定取り消しの全国民運動を起こしましょう」「これから行われるすべての選挙において「集団的自衛権行使容認の解釈改憲のための閣議決定」を推進した議員を落選させる運動を起こしましょう」と書かれてあり、自民・公明両党の決定に反対の声を上げていた(参考ページ⇒ http://moritasouken.com/sC3294.HTML)。
また、「第二次大戦後の69年間、この時代とともに生きてきて、国家権力によって何回も裏切られてきましたが、 2014年7月1日は最悪の日です。この決定に加わってほしくなかった公明党が、この閣議決定に加わり、平和を害する蛮行の共犯者になることは、公明党を支持してきた者として慚愧に堪えぬことです。深く責任を痛感しています。どのような形で責任をとるべきかを熟慮中です。なんらかの形できちんと責任をとるつもりです」とも語っており、近年公明党を支持してきた自身の心境を述べている(参考ページ⇒ http://moritasouken.com/sC3289.HTML)。
但し、創価学会・公明党の全てを批判している訳ではなく、あくまでも公明党執行部の暴走であり、執行部以外の公明党議員や多くの学会員は執行部の行為に反対していると考えているようだ。
更に、「この問題に公明党の中枢部が加担したことが明らかですが、創価学会が関与したかどうかについては両説あります。一つは「ある程度の関与があった」説です。もう一つは「関与はなかった」説です。ただ「中央組織あげての関与はなかった」ことは、どちらも認めています。私のところに入る情報の中では、「公明党執行部独走説」が有力ですが、いまのところよくわかりません。ある一定の時期が過ぎれば、明らかになると思います」と述べ、「よくわからない」としながらも、創価学会は関与していないという説が有力だと考えているようだ。
しかし果たして創価学会と表裏一体の公明党執行部が独断で暴走出来るだろうか。創価学会の関与があったからこそ暴走したのだと言えるのではないか。執行部の暴走ではなく、これまでの慎重姿勢がポーズに過ぎなかったのであり、結局この結論になる予定だったのではないのか。何しろ公明党の目的は平和の推進ではなく与党としての利権維持なのだから、自民党との連立から離脱する事など考えてもいないだろう。
それに森田氏は今でも「公明党と創価学会の人々は温厚な紳士・淑女ばかり」だと思っているようだが、それはあくまでも客人用の対応に眩惑されているだけの事でしかない。創価学会の実態を知らない森田氏には、志茂田景樹氏の青年行動隊の頃の話を聴いてもらって目を覚ましてもらいたいものである。
それはともかく、学会員に限らず、世間一般においても、今回の集団的自衛権の限定的行使容認については反対している人々もいれば賛成している人々もいるように、この決定内容は単純には判断が難しい面はあるようだ。
ただ、言える事は、今回の合意が足かせになり次の選挙で公明党はかなり苦戦するのではないかという事だ。思考停止の学会員なら問題なく公明党の票集めに頑張るだろうが、今回の公明党の決定に反対している学会員が次の選挙でどこまで頑張るかだ。そして、公明党は「平和の党」の看板を外してしまったと思っている外部の公明支持者つまりF票をどれだけ穫れるかだ。
そういう意味で次の選挙は面白くなりそうだ。


話半分に受け取ったほうが良い聖教新聞の功徳の体験記事

7月1日付聖教新聞の信仰体験のページに、「私は折伏が大好きなんだ!」という見出しの記事が掲載されていた。
内容は、韓国SGIの高齢の婦人部員による体験談で、折伏するのが大好きで今でも全国の座談会に飛び回っていて、信心のおかげで一家和楽になり、ガンも乗り越え、家族全員学会員として活躍しているのだという。
学会員の中にはこのような体験談を読むと、自分ももっと頑張らなければと思う人もいるのかも知れないが、少なくとも、これまで創価学会で実体験してきた人なら、このような体験記事に心動かされる事はないだろう。
「これまで、この信心で数えきれないほどの功徳の体験が語られてきた」とは創価学会の宣伝文句であるが、実際には自分自身も含め、周囲を見ても、このような功徳の体験をしている学会員にはなかなかお目にかかれないものである。
少し前に記事に書いた元公明党議員夫妻のように、長い間創価学会の信心と活動にどっぷり浸り、創価学会を信じ続けてきた信者でもその人生は悲惨な結果となっている。多くの学会員がそうであり、この体験談にあるような例の方が少ないと言ってよい。それに、創価学会の功徳の体験記事には脚色が多いから、この場合も話半分に受け取っておいた方が良いだろう。
このような功徳の体験記事を読み、もっと信心に頑張ろうと決意してますます学会活動にのめり込んでも、その記事にあるようには行かないものである。何しろ聖教新聞の功徳の体験談には作り話が多いのだから。
功徳の体験があってもなくても学会活動自体が好きでたまらないという信者なら別に構わないのだろうが、学会活動は嫌いだが功徳が欲しいから活動しているという人は無駄だからやめた方が良いだろう。


中国のカルトと創価学会の共通点

中国では最近、「全能神」というカルト教団が猛威を振るっているのだそうで、勧誘を断わった人を信者が暴行したり殺したりする事件が相次いでいるのだという。

参考ページ⇒ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140531-00000023-rcdc-cn

       ⇒ http://www.gekiyaku.com/archives/39139252.html

これを見て、すぐ創価学会が頭に浮かんだ。筆者が学生の頃アルバイトをしていた時、職場に元学会員だという2人の社員がいたのだが、その2人が言うには、2人共創価学会の青年行動隊に所属していた事があり、その組織では、主に道行く若者やアパートで1人住まいの若者の部屋に行って折伏し、相手が入信しない時は殴るなど暴力を振るって無理やり入信させていたのだという。
その話を聞いた時は冗談で言ってるのだろうと思っていたのだが、随分後になって創価学会を脱会し、創価学会の裏面史を調べていくと、特に戦後から高度経済成長期にかけての時期に、青年部による軍隊組織若しくは謀略組織じみた組織が作られ、折伏や選挙活動で、あるいは対立する他宗や団体に暴力行為や謀略括動を行なっていたという事が判り、アルバイト時代の元学会員が言っていたのは本当だったのかと思ったものである。
それについては元学会員の作家・志茂田景樹氏も、『折伏鬼』の電子書籍復刊でのインタビューで、「対立候補の選挙ポスターが貼ってあると、僕ら行動隊が行って、針金を切って外して燃やしてしまうとかね。そんなのは日常茶飯事。完全な公職選挙法違反。あと、選挙に限らずだけど、街中で寺を見つけるとお坊さんに法論をふっかけたり。法論といっても今思うと勝手な理屈で(笑)。でも大勢の学会員で押しかけていくから、向こうも閉口してしまうんですよ」と、青年行動隊での活動を語っていたものだ(参考ページ⇒http://news.livedoor.com/article/detail/6302459/

また、近頃見つけた資料によると、昔創価学会は検察庁から右翼団体に分類されていたそうだが、その理由は暴力的な行動が顕著だからだそうで、これも創価学会の暴力宗教としての裏の顔を物語るものだ。

参考ページ⇒ http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=819898&id=8269027

以上のように、中国のカルト教団と同じような事を創価学会もしていたのである。しかも、そのような凶悪なあるいは汚い仕事は決して一般の信者には知られないようにしているから、一般信者の多くはそういう証拠を突きつけても創価学会を疑おうともしないが、現在でも裏側で同じ事を行なっているようだ。
それにしてもこの前の韓国のカルト教団と言い、今回の中国のカルト教団と言い、どちらも創価学会との共通点が特徴的だ。やはりカルトというのはどれもこれも似かよっているから、いくら表面を取り繕っていてもすぐ正体が判るものだ。
「世界平和」とか「人権尊重」とか「生命の尊厳」とか掲げてとぼけているが、実態は人権無視、生命軽視、暴力肯定のカルト教団なのである。その正体も知らずに手先となって活動している一般の信者達が哀れに思えてくる。

珍しいテレビ番組での創価学会批判

今や巨大な財力でマスメディアや経済界などを支配し、おおっぴらな批判を封じ込めている創価学会だが、珍しくテレビ番組で批判されている動画を見つけた。
番組は「朝まで生テレビ」で、筆者は見ていなかったので正確な年月は判らないが、1999年頃放送されたものではないかと思う。
番組には公明党の北側一雄議員や白浜一良議員らも出演し、自民党の平沢勝栄議員や当時自民党だった白川勝彦議員らが創価学会・公明党の問題点を取り上げて批判していたものである。ご存知の方も多いと思うが、その動画を見つけたのでここに貼っておきたい。
今ではこのような番組を見るのは期待薄だが、創価学会批判をこれからもどんどんテレビ番組で放送してもらいたいものである。





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