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「因果の理法」を説きながら因果の理法を信じない創価学会

創価学会は「因果の理法」を説き、「善を行えば自分に善が返ってくる、悪を行えば自分に悪が返ってくる」と強調している。
因果の理法とは元々仏教で説いている「縁起の法」の事で、その内容を「善因善果・悪因悪果」「善因楽果・悪因苦果」と言う。
創価学会も因果の理法を説いているのだが、因果の理法を説きながら自らは因果の理法を信じていない。それはこれまで創価学会が行なってきた悪辣な言動を見てみれば明らかだ。因果の理法を信じているならとてもできないような悪行を、創価学会はこれまで行なってきたし、信者にも行なわせてきたのである。
例えば、聖教新聞や創価新報の敵対者への罵詈雑言記事1つとってみても、因果の理法に照らせば、あんな汚い下劣な言葉で罵倒すれば、それが自分達に返ってくるという事になるのだが、創価学会はそんな事は全く信じてないようだ。信じてないからあんな汚い罵りの言葉を書けるのである。本来ならば信者に手本を示すべき立場にありながら、悪の手本を示し、信者にも同じような事を行なわせている有り様だ。
そのように創価学会が因果の理法を説きながらそれを信じてないのは、学会の言う因果の理法は元来の仏教が説く縁起の法とは違うからである。
創価学会が言う因果の理法とは、創価学会を信じて学会活動する事が善であり、創価学会を信じない事や批判する事は悪である、また、創価学会の為になる事をすれば善であり、創価学会に敵対する事をすれば悪という屁理屈の事なのである。だから創価学会の為になるなら、脱会者や敵対者に汚い罵詈雑言を浴びせても善であり、創価学会の為になるなら犯罪を行なっても善なのであるし、創価学会を脱会したり創価学会を批判するのは極悪であるから地獄に堕ちると言うのである。
これが創価学会が言う因果の理法なのであるが、仏教で説く縁起の法としての因果の理法とは違う。あくまでも創価学会独自の教義でしかない。故に創価学会は仏教ではないのである。
いずれにしろ、創価学会の為なら人の迷惑になる事や犯罪を行なっても善であるなどまともな宗教の教義ではなく、世の中の脅威にしかならない反社会的勢力と言える存在だ。





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非常識な人間を育成する創価学会

パナソニックの創業者・松下幸之助氏の名言及び信条として「松下電器は人をつくる会社です。あわせて電気製品を作っています」「松下電器はものをつくる前に人をつくる会社である」というのがある。松下氏はそれほどに人材育成に力を注いでいた訳だが、その松下氏は池田名誉会長と親交があり、創価学会に好意的であった事が知られている。
それは人材育成という共通点で創価学会にも理解を示していたのであって、信仰面や教義について共感していた訳ではない。
そしてその人材育成という点については、松下氏の場合、事業家であったから自分の会社の為に役立つ人材を育てるというのは勿論だが、それがそのまま社会に役立つ人材に育てる事になるという理念であった訳だ。
それに対して創価学会はどうかと言えば、創価学会の為に役立つ人材を育てはするが、非常識な人間になるように育成しているから社会に役立つ人材にはならず、社会に迷惑をかける人材となってしまっている。それは創価学会という組織が反社会的な存在だから、人材もまた非常識な人間へと育成されてしまうからである。
実際、学会員の中には世の中の役に立っている人物もいるにはいるが、熱心な学会員ほど非常識で、人に迷惑ばかりかけている者の方がよほど多い。人に迷惑をかけておいて「良い事をしてやった」とか「正しい事をした」としか思っていないのである。
創価学会での人材とは、創価学会の為に役立つ者の事であり、世の為、社会の為に役立つ者の事ではない。
創価学会にとっては、世の中に迷惑かけても、学会組織の為に役立つなら人材なのである。
松下氏の事業は世の中に役立つ事業だが、創価学会の方は社会の迷惑にしかならないから、両者の人材観が根底から異なるのは当然である。
そもそも、松下氏の事業と創価学会の組織とを同じ立場として見る事が間違っているのだ。


煩悩の火に焼かれる学会員

筆者が学会員だった頃、ある有名な芸能人が若くして死亡した事があったのだが、地区座談会で地区幹部がその件に触れて、「芸能界で成功してどんなに栄華を極めて幸福の頂点に立ったように見えても、創価学会で信心しないならその幸福は砂上の楼閣でしかない。崩れない幸福を築くには創価学会で信心するしかない」などと上から目線で指導していたものだった。創価学会にしか幸福境涯はないなどと驕り高ぶった口調で得意気に喋っていたが、そう言っている学会員も同じように若死したりなど様々な人生の苦しみに遭遇しているのが現実だ。創価学会はよく「信心していればたとえ難に遭っても悠々と乗り越えていける」などと言っているが、実際の学会員を見ていると苦難に遭遇して悠々と乗り越えている者を見た事がない。
熱心な学会員でも病気に罹れば苦しむし慌てて病院に行く。事故に遭っても慌てふためくし、生活に困ればこれまた慌てふためいて知人に泣きつくというように、全然泰然自若としている者はいなかった。信心強盛な学会員も一般人と変わりないのである。
実際、創価学会で熱心に学会活動に励んでいる学会員で崩れない幸福を得たという者にお目にかかった事がない。
というよりも、そもそもこの世は無常であって、そのような現世利益としての崩れない幸福など存在しないと説いているのが仏教ではないか。それをさも現世利益として崩れない幸福境涯が存在するかのように主張しては信者の欲望を煽り、その現世利益を求める心を利用して依存させているのが創価学会なのである。それこそが砂上の楼閣ではないか。
学会員以外の一般人を、法華経で説く三車火宅の譬えにあるような煩悩の火に焼かれて苦しんでいる劣った人間のように見下し、自分達だけはそのような低劣な煩悩には迷わないかのようにうぬぼれているが、実際には「功徳」というニンジンに釣られては煩悩の火に焼かれながら創価学会に良いように引っ張り回されているのが盲信狂信の学会員なのである。 
そこに未だに気が付かないようでは一般人を見下す資格などない。



人の苦悩に同苦しない学会幹部

創価学会は「慈悲」を強調し、慈悲の心で人を救えと信者に指導している。そして創価学会では慈悲とは「人の苦悩に同苦する事」だと定義している。池田名誉会長の指導として、「“同苦”とは、単なる“同情”ではない」とあり、共に悩み、苦しみながら相手に真心の励ましを送り、共に立ち上がっていく事が慈悲であり抜苦与楽の実践なのだと指導している。
そのような慈悲の行を実践しろと信者に言っている創価学会なのだが、それを指導している学会幹部にその「同苦」の姿勢が見えない。活動家が学会活動の為に生活を犠牲にして困窮し苦悩して幹部に指導を求めても「信心が足りない」と言うだけである。信者が苦しんでいるのに「そんな事知った事か。自分で何とかしろ」とばかりに突き放しているだけである。
これが創価学会の実態なのである。いくら口先では「慈悲」とは「人の苦悩に同苦する事」だとか「苦しみを抜いて楽を与えるのが慈悲だ」などと言っていても、幹部がそれを実践していないのだ。
所詮は口先だけの「慈悲」なのである。



創価学会の本音に翻訳

8月19日付聖教新聞の「この一節を胸に行学に励む」のページで、テーマの「広宣流布の大願」についてQ&A形式で書いてあったが、その内容はいつものように創価学会の本音を隠した建前論になっている。
そこで、そのテーマの「広宣流布の大願」について創価学会の本音を補足してここに書いておきたい。


(大見出し) 全ての人を仏の境涯に - 大聖人の御遺命を実践
本音⇒全ての人を学会の奴隷に - 池田名誉会長の命令を実践


Q. 創価学会の目的は、広宣流布であると教わりました。
A.  万人の幸福と世界の平和こそ、日蓮大聖人の願いです。
本音⇒ 学会の特権階級の幸福と学会が世界を支配する事こそ、池田名誉会長の願いです。


Q. 広布といってもなかなか実感がわきません。
A. 御書を根本にした、日々の学会活動そのものが広布の尊い歩みです。
本音⇒御書にはない学会独自の活動そのものが創価支配の為の歩みです。


Q. 今まさに悩みの真っただ中にいるのですが‥‥。
A. 広布に生き抜いていけば、必ず境涯を開くことができます。
本音⇒ 学会活動に生き抜いていけば、必ず生活も家庭も破綻しますが、それくらいは我慢しなさい。



聖教新聞に本音を書けば、学会員も離れてゆくだろうし、新入会者もいなくなるだろう。「日蓮大聖人」とか「御書根本」とか「広宣流布」とかいう言葉は信者を集めて操る為のただの看板でしかないのだ。
聖教新聞など創価学会の出版物を読む時は、このように学会の本音モードに翻訳しながら読まないとその文章の裏に隠されている実態が判らないものである。


創価学会こそ最大の邪宗

かつては他宗教を「邪宗」と言って散々にけなしてきた創価学会だが、近頃は日蓮正宗との抗争が忙しくて他の宗教を批判するヒマがないのか、あるいは他の宗教まで敵に回すのは得策ではないと気が付いたのか、日蓮正宗以外の他宗教への批判記事を学会の機関紙誌で目にしなくなった。
『大白蓮華』にも10年くらい前に新宗教批判の記事が連載されていたが、何回か連載されただけで途中で終了してしまっている。それ以後は他宗教批判記事を目にしない。
また、近頃は日蓮正宗以外の他宗教に対しては「他宗」という呼び名を使い、邪宗呼ばわりはしなくなったようだ。
かつて創価学会は、学会が言ってる事は全て宇宙の法則であり永遠に変わらぬ真理であるかのように信者に徹底的に指導していたものだが、結局は宇宙の法則でも永遠の真理でもなく、時間の経過と共に変化してゆくものであった訳だ。
だから、創価学会では根本として信じるべき本尊さえも変えてしまい、邪宗呼ばわりしていた他の宗教とも仲良くするようになったりする訳なのだ。何とも勝手なものである。結局は創価学会の都合で何とでも変わるものなのだ。その程度のものでしかないのである。
個人の創価系ブログの中には、つい最近の記事でも日蓮の「四箇の格言」を未だに重要項目として取り上げているのもあるが、創価学会自体が「四箇の格言」をなかった事にするような状況にある昨今、今まで学会が指導してきた方針を未だに金科玉条の如く守っている学会員などはコロコロ変わる学会の方針に振り回されていい面の皮ではないだろうか。
インターネットの質問サイトにも学会員と思しき質問者から「創価学会は、かつては「邪宗撲滅路線」だったが、今では「他宗協調路線」になっている。学会の言う事は真理だと言うのなら、なぜ真理が簡単に変わるのか?」といった質問が寄せられている。創価学会の言う事には何も考えずに附いてゆく盲信学会員も多い中、学会のコロコロ変わる方針に矛盾と疑問を抱いている学会員も少数ながらいるようだ。
その学会員の質問に対する答は簡単だ。それは創価学会は真理ではないからである。真理ではないから言ってる事が違ってくるのであるし、方針も変えられるのである。そもそも創価学会を真理だと思うのが間違いなのだ。
創価学会は真理を追求する為にあるのではなく、利益を追求する為に存在しているのである。
それ故に、今まで他宗教を邪宗呼ばわりしてきた創価学会こそが最大の邪宗なのである。



仏教の名を貶めた創価学会

「創価学会こそ宗教界の王者」「創価学会こそ最も正しい仏教団体」とは創価学会がこれまで掲げてきた宣伝文句であるが、昔はそれで通用してきたが、と言うよりも、うまく大衆を騙してこれた訳だが、現在のようなインターネットで様々な情報を容易に得られるようになった時代ではもはや通用しなくなってきているし、大衆もそう簡単には騙されなくなってきている。
それでも聖教新聞などを見てみると、相変わらず「学会活動こそ仏になる道」などと厚顔無恥にもうそぶいているが、これなどはいかに創価学会が大衆をなめきっているかという事の証左でもある。
釈尊の説法から始まった仏教も時代と地域の変遷に伴ってその思想や化儀もかなりの変貌を遂げたのは事実である。
仏の教えとは言え、時代や地域が変わればその思想や化儀も変化するのは当然とは言える。
仏教の開祖が説いた教えだから現代でも1つも変えてはならないというのは硬直化した原理主義であり、時代や地域に則したものに変わってゆくのは当然の結果ではあるだろう。ただ、それでも仏教の根本として変えてはならないものもある。枝葉の部分は変わっても良いが、根本的なものが変わってしまってはもはや仏教とは言えなくなる。
日本仏教もインド仏教とはかなり違う形態に変わってしまっており、全く違う宗教と言っても良いくらいなのだが、それでも日本仏教が仏教足り得るのは、その根本の部分に釈尊以来の仏教の精神が伝えられているからだ。
それに対して「戦え」とか「闘争する事こそ仏法」とか、あるいは「勝って勝って勝ちまくれ」「大勝利しろ」などとうそぶく創価学会にはその根本の部分にもはや仏教の精神がなくなっている。勝ち負けにこだわらない事や執着心から離れる事は仏教の根本精神なのに創価学会は勝ち負けにこだわり、信者に執着する心を植え付けている。これは根本の部分ですでに仏教ではない。世間でよく言われるように「創価教」あるいは「池田教」とでも呼ぶべきもので、仏教とは違う宗教である。
創価学会では盛んに「教学こそ信仰の〝背骨〟である」とか「教学こそ信心向上の推進力」などと言ってるし、池田名誉会長の言葉としても「教学の力を持たなければ、真実の偉大な信仰者とはいえない」というのがあるが、学会教学を懸命に学んでもそれは創価学会内でしか通用しない。自分達だけで自己正当化して「我々こそ正しい」と思い込んでいるだけの話でしかないのだ。自己満足する為の学会教学でしかないのだ。
そういった事は昔は一般大衆には知らない人が多かったものである。筆者も学会活動する前は、活動に引っ張りだそうとしつこく訪問してくる学会活動家に「なぜ創価学会だけが正しいと言えるのか」とか「なぜ学会活動する必要があるのか」などと抵抗していたものだが、相手が天台の「五時教判」などを持ち出して「だから現代では、最も法華経の教えを正しく実践している創価学会だけが正しいし、学会活動しなければ謗法になるんだ」などと言うと、それに反論する事ができなかったものである。今ならそんな事は簡単に論破できるのだが、当時は仏教の知識には全く疎く、また、幼少の頃から創価学会の雰囲気の中で育った為、「創価学会は正しい宗教」という考え方が刷り込まれてしまっていたという事もあり、、相手が学会教学で来ると何も言い返せず、「創価学会は正しいから仕方ないか」などと思って渋々ながら学会活動を始めたものであった。
しかし、今まで簡単には知り得なかった情報がインターネットで簡単に得られる時代になった今、一般大衆でも創価学会の実態が判るようになってきている。
それによって創価学会がいかに仏教の名を貶めたかという事も判るはずである。
そのような創価学会には「宗教界の王者」に代えて「詐欺師の王者」というキャッチフレーズを進呈しておきたい。



社会的有用性だけで評価する危険

学者や評論家などの文化人の中には、創価学会の社会的な有用性だけを論じ、その結論として「創価学会は社会の中で一定の役割を担ってきた」とか「戦後日本の底辺に位置する大衆の為に役立ってきた」などと理解を示し創価学会を好意的に評する者も多いのだが、しかし、それは一面だけを見て他の面を見ない単眼的な見方でしかない。
創価学会が社会的に役立ったかに見えても、その学会の犠牲になった大衆も多くいる事を見落としてはならない。
創価学会に理解を示す文化人の論は、ナチスは第一次世界対戦後のドイツを経済復興や科学振興等によって立て直したから善であるとしてナチスの犠牲になった民衆を見て見ぬふりをするか若しくは少々の犠牲は仕方がないと言っているのと同じなのである。
創価学会を社会的有用性だけで評する文化人は、創価学会に対しては第三者的な立場であり、謂わば気楽な立場であるだけに犠牲になった大衆など眼中にない訳である。
社会の中で一定の役に立ったと言って創価学会に理解を示すのは、犠牲になった大衆を無視した、謂わば弱者を切り捨てた発言であり、結局は勢力のある側に付く追従者だと言ってよい。
創価学会に好意的な文化人にはこのような追従者が多く見受けられるから、その言動には注意が必要だ。
創価学会が社会的地位のある文化人から好意的に評価されているからといってそれを盲目的に信じる時代はすでに終わっているのだ。たとえ社会の底辺に位置する大衆であっても、自分の頭で考え判断すべきである。その判断ができずに著名な識者から称賛されているから創価学会は正しいと今でも信じている学会員などは、いつまでも創価学会の犠牲になってゆく事だろう。自分が犠牲になっている事すらも判らずに犠牲になり続ける滑稽さに気づくべきだ。




創価学会のうまい話には裏がある

創価学会の公式サイトや聖教新聞の「新会員のための仏法入門」の記事には、「法華経を学ぶ」とか「日蓮大聖人の教え」とか「生命尊厳」とか「人間尊敬」とか「反戦平和」とか、創価学会の表向きの建前しか書いてないから、それだけを見て、創価学会は素晴らしい団体だとかまともな宗教だと勘違いして入会してしまう人も中にはいるようだ。
言ってる事とやってる事が違う、本音と建前が違い過ぎるのが創価学会の特徴であるから、法華経を学ぶつもりが選挙活動に動員され、日蓮の教えを信仰するはずが池田名誉会長の個人崇拝をさせられ、信仰の功徳で幸福になるはずが学会活動と財務の為に生活も家庭も破綻崩壊し不幸へと堕ちてゆく事になる。また、麗しい人間主義の組織のはずが、数字の報告と成果を要求される心の休まらない組織である為ストレスに苛まれる事になるだろう。
しかも1度入会すると脱会するのにかなり苦労する事になる。
このような創価学会の実態を知らない人は、夢々宣伝文句だけで信じない方が良い。「うまい話には裏がある」とはよく聞く言葉であるが、創価学会のうま過ぎる話には裏がある事を知っておいた方が良いだろう。


戦時国家と創価学会の共通点

もうすぐ終戦記念日で、テレビ番組でも戦争の話が組まれる事が多いが、それらの番組を見ていると、戦時の日本と創価学会の組織の様相がよく似通っている事に気づく。
まず、戦時の日本では、大本営発表による情報操作をし、都合の良い事だけを発表し都合の悪い事は発表しないし、あるいは嘘の報道をする。これは創価学会の組織でも全く同じで、学会に都合の良い事だけを公表し都合の悪い事は公表しないし嘘も平気でつく。学会の公式サイトを見ると、日蓮の教えを学び弘めるという事しか書いてなくて、実際は創価学会の主活動となっている選挙戦や財務などという日蓮の思想と直接関係のないものは全く掲載してないし隠している。
次に軍部国家による敵国への戦闘鼓舞と国民の戦意高揚も、創価学会が敵対者に対して信者に「闘争しろ」「戦え」とそそのかしているのと共通だ。
そして戦時にはそれによって、「お国の為」という大義を盲目的に信じて戦闘へと突き進む国民がいたように、創価学会の場合でも幹部から吹き込まれた事を盲信し狂信的に活動に突き進む信者がいる。幹部から敵対者への「呪いの題目」を唱えるとすごい功徳があるなどと吹き込まれると疑いもしないで呪いの題目に張り切る狂信信者などはその典型だ。
また、戦時でも、軍部国家の戦争政策に疑問を抱き不信を持っている国民も多くいたが、それを声高に叫び主張すると非国民扱いされて弾圧される為、多くの国民は仕方なく国の政策に従っていた訳だが、これも創価学会と共通で、盲信・狂信している信者よりも学会に疑問や不信を抱いている信者の方がよほど多いのだが、それも声高に主張できない雰囲気がある為、不満を持ちながらも不承不承学会組織に従いて行っている信者が多いというのも共通している。
例えば戦時体制下だと、自分の息子が徴兵されたら、不満や悲しみを隠して喜んで送り出さなければならなかったが、創価学会の場合も、特に活動家は過酷な学会活動にも財務にも内心の不平不満を隠していかにも喜んで参加しているように見せなければならず、その点も共通している。
このように戦時体制下では国家による国民の意識誘導が行なわれているが、それは国家による洗脳・マインドコントロールと言ってもいいのではないか。その点も創価学会も同じで、情報操作による信者の意識誘導であり、それもまた洗脳・マインドコントロールと言い得るものだ。
そのようにどちらも思考を圧迫して従うように仕向けて戦闘や活動に動員する手法は戦時体制下も創価学会の組織も同じなのだ。そして、軍国主義の日本は全体主義であったし、創価学会も「仏法民主主義」などと謳っていてもその実態は上から一方的に命令を下す全体主義的な組織である。そのいずれにも犠牲者が出ているのも共通であるし、どちらも幸福にはなれないという事も共通している。
小説『人間革命』の冒頭に「戦争ほど残酷なものはない。 戦争ほど悲惨なものはない」とあるが、「創価学会ほど残酷なものはない。創価学会ほど悲惨なものはない」と言い換え得るのである。






宗教栄えて、国滅ぶ

先日、一般紙を読んでると、ある総合雑誌の広告が載っていて、そこに「宗教法人課税-「坊主丸儲け」を許す政治家とメディア」という項目があり、その詳細な解説として「金満宗教団体が政治家を献金で飼い馴らし、新聞社の口を広告料で塞ぐ。数兆円の税収が見込めるのに、議論さえ許されない。まじめな納税者がバカをみる不公平を、権力が擁護する理不尽。宗教栄えて、国ほろぶ」と書いてあった。
これを読んで、すぐ創価学会が頭に浮かんだ。勿論、その広告文にあるような宗教団体は創価学会だけではないだろうが、特に「新聞社の口を広告料で塞ぐ」というのは、一般紙に頻繁に広告を出している創価学会がその筆頭に来るのは言うまでもない。
この世の中には理不尽な事が多いが、この現代社会においてもまだ、悪質な宗教団体に政治家とメディアが牛耳られるなどという事がまかり通っている。そんな事は近代以前の話かと思ったら、今もまだ当然のように行なわれているのだから呆れるばかりだ。
創価学会のような金満宗教法人に課税すれば税収も増え、その上、悪質教団の力も削ぐ事になり、それによって、政治家もメディアも創価学会の支配から脱する事ができるのに、目先の利益に目が眩んでいる為、社会に害悪を流している教団の現実には見て見ぬふりをするだけでなく擁護さえしている始末である。
全ては政治家やメディアの利益最優先のエゴによるもので、それを創価学会のような悪質な教団に利用されてしまっているという事だ。政治家やメディアが己の利益ばかりを考えている限り、いつまでも創価学会に支配された社会が続く事になるだろう。このままの状態が続く限り、「宗教栄えて、国ほろぶ」のは必然だ。




「学会活動こそ仏になる道」にギャグ大賞を!

8月7日付聖教新聞に「学会活動こそ仏になる道」という大見出しの記事が書いてあったが、学会活動で仏になれるのなら、過激派の左翼活動でも仏になれるだろう。実際、学会活動に励んで仏の境涯になったという学会員にお目にかかった事がない。学会活動で仏の境涯になったという学会員と出会うのは、仏典にある「浮木に逢える一眼の亀」の喩え話よりも有り得ないし、同じく「優曇華の花」を見るよりも稀な事だろう。
尤も、創価学会では独自に「仏」の定義をしており、池田名誉会長のような面の皮の厚い強欲な人間の事を「仏」と言うらしいから、確かに学会活動していればそういう人間にはなれるのかも知れない(笑)
それにしても「学会活動こそ仏になる道」とは、なかなか面白いギャグである。ギャグ大賞というものがあるのなら、是非、聖教新聞のこの記事に贈ってもらいたいものである(笑)






何が何でも本を売りつける創価学会

創価学会のベストセラー本は学会員の間でしか売れていない。買っているのは殆ど学会員ばかりだ。だから学会幹部は会合でも何とか学会員に本を売りつけようと必死である。
筆者が学会活動家だった頃、男子部の役職者だけの会合が所属本部で行なわれた時、本部幹部が席上で「『人間革命』の新しい巻が発売されたので、皆申し込むように」と”指導”したのだが、その時、1人の男子部員が手を挙げて立ち上がり、「私は聖教新聞の切り抜きを読んでるので本の方はいりません」と発言した事があった。学会の本が発売されれば、特に『人間革命』など池田名誉会長の著作とされるものは支部で当然のように売りつけられる事になっているし、それ以外の学会の本も支部で割り当てられ、売りつけられる。特に役職者は買うのが当たり前とみなされているが、今までそれに対して異を唱える事は許されないという雰囲気が創価学会にはあった。
それが、その男子部員(役職は不明)は、「自分は聖教新聞の切り抜きを持ってるから本の方はいらない」と言ったのだから、すごい勇気があるなと思ったものである。
それに対して案の定、本部幹部は「聖教新聞の切り抜きはそれはそれとして、本の方が発売されれば、それも買って読むのが弟子として当たり前の行動だ」とか何とか屁理屈をつけて何が何でも買わせようとしていたものである。
しかしそれでも男子部員は納得がいかない様子なので、本部幹部は「君はこの会合が終わったらその場に残っていろ。君にはその事でもう少し指導する必要がありそうだ」などと言って、いったんその問答を打ち切っていた。
実際、『人間革命』にしても『新・人間革命』にしても、聖教新聞に連載されていて、それを会合で読み合わせまでして何回も読んでいるのだから、別に本まで買う必要はないのである。それを、それとは別に単行本も買えとか、文庫本が発売されたら文庫本まで買えというのは強欲な悪質商売人以外の何物でもない。
こういう強欲商売人を宗教家として崇め奉っている盲信学会員というのは一般人からは勿論、同じ学会内でも組織と距離を置いている学会員から見ても異常としか思えないだろう。


お笑い折伏戦-創価芸能人を折伏に利用する学会員

創価学会には芸能人の会員も多いが、その芸術部芸能人の名前を出して折伏している学会員もいるようだ。ただ、芸能人の学会員というのははっきり判ってる者もいれば、噂だけではっきり確定していない者もいる。そして学会員も、どの芸能人が学会芸術部員なのかよく判ってない場合も多いようだ。そういう場合、はっきり判ってなくても噂だけの芸能人を折伏に利用する学会員もいる。
筆者が学会活動を始めた頃、折伏戦の活動として、地区幹部2人に連れられて、独身者が住んでそうなアパートに飛び込みの折伏に行った事がある。
その中の一室に気の弱そうな青年が居て、我々は強引に部屋に入っていって折伏を始めたのだが、話をするのは地区幹部2人で、筆者は殆ど黙って聞いていたが、その青年がなかなか入会すると言わないので、地区幹部の1人が「実はあのアイドルの〇〇も学会員なんだよ」と言い出した。筆者はそれは初耳だったので、え、それは知らなかったなと驚きながらもう1人の地区幹部の顔を見ると、そんな事当然知っているという顔をしている。それで筆者も同じように前から知っているというような顔をしていた。
その地区幹部はアイドルの名前を出せば相手は喜んで入会するとでも思っていたようなのだが、どうやら相手はアイドルには興味がなかったようで、話に乗ってこなかった。それで当てが外れた地区幹部は、「正式に入会しなくても、まずはお試しで仮に入会してみてはどうか。嫌なら辞めればいいから」などと言って粘ると、相手も長時間部屋に居座られて根負けしたようで、お試しならやってみても良いと言ったので、その場で入会決意カードに書かせ、次の休みの日に御授戒に連れて行く約束をしてその部屋を出たのだった。
お試し入会などと言っていたが、勿論それは嘘で、帰り道で地区幹部は「本尊送りしてしまえばこっちのものだ」と言っていたものだ。
それで約束していた日にまた同じメンバーで先日の青年のアパートに行くと、何と、その部屋はもぬけの殻で、すでに引っ越した後だった(笑)
地区幹部達は残念そうにしていたが、筆者は相手を気の毒に思っていたので、内心笑っていたものであった。
ちなみに、筆者はその後他の幹部に、アイドルの〇〇が本当に学会員なのかどうか聞いた事があるのだが、その幹部は「それは嘘だろ。〇〇は学会員ではないはずだ」と言っていたものだ。あの地区幹部が嘘をついてたのか、それとも噂を信じてただけなのかははっきりしないが、当時はまだインターネットもなく、時々週刊誌に芸能人の誰が学会員だとして名前が出る程度だったので、学会員もよく判らないまま芸能人の名前を使って折伏に利用していたようだ。
比較的近頃の話としては、数年前、実家に帰省した時、実家によく来る婦人部員達と遭遇した事があるのだが、その時その中の1人が、「俳優の田村正◯も学会員で、支部長として信心に頑張ってるよ」と言い、続けて田村正◯の兄弟も皆学会員だと言っていた。有名芸能人も学会員だと言えば、筆者が創価学会に戻るとでも思ったのかどうかは判らないが、しかし、その直後、長兄の田村高◯が亡くなったのだが、その葬儀は学会葬ではなかったようで、戒名でも判る通り、他の仏教宗派による葬儀だったようだ。つまり学会員ではなかったという事だ。その後インターネットで調べると、田村正◯については同姓同名の学会支部長がいるらしく、俳優の田村正◯は学会員ではないという情報が有力だ。
つまり、その婦人部のおばさんはその情報をどこで仕入れたのか知らないが、間違った情報を信じていたようだ。たとえ確定していない情報であっても有名芸能人が学会員だという噂があるとそれを折伏に利用したいのだろう。そうでもしないと折伏の成果が上がらないという事なのだ。

仏教が目指す境地とは無縁の学会活動

筆者が学会員だった当時、学会活動家は昼は仕事で社会に実証を示す事を求められ、夜は会合があるなら部員の連れ出しをして会合へ、選挙戦ならエフ取りに、折伏戦なら友人・知人の所へ折伏に、何もないなら部員回りにと、とにかく学会活動に走り回っていなければならないという雰囲気があり、夜に自宅に居る所を幹部に見られたりすると気まずい思いをしたものである。
それについて選挙戦の最中だったか折伏戦の最中だったか覚えていないのだが、仕事から帰ってきて、その日は会合もないし疲れていたので食事してテレビを観てたら、夜8時前後に男子部の本部長と地区幹部がやってきた。何事かと思ったら、今、支部内の活動家がどれだけ活動に頑張ってるか抜き打ちテストみたいに男子部活動家を見て回っているのだという。要するに、自宅でのんびりする閑があったら活動に出て行けという事らしい。
本部長は「まあ、頑張ってくれ」とだけ言って出て行ったが、一緒に来ていた地区幹部は「何で家にいるんだ?」というような顔つきで見ていたものだった。その翌日、男子部の会合に行ったら、その地区幹部が「本部長と一緒に回ってて、うちの地区には夜自宅にいるような活動家はいないですよなんて言ってたら、家にいるんだもんな」と、皆の前で暗に筆者の事を皮肉り、嫌な気分にさせられたものである。
当時は学会活動を仏道修行だなどと思い込まされ、夜は活動で外に出て行くのが当たり前だと思い込まされていたが、今思えば、夜遅くまで外をほっつき回る方がよほど異常である。
創価学会は仏教の看板を掲げていても、実際にやってる事は過激派や左翼活動家のような闘争と勝利する為の組織活動でしかない。そのようなものは仏道修行ではないし、そういう活動に没頭していても仏教の目指す究極の境地だという涅槃=心の安らぎの境地に到るのは無理だ。


現実を見ない盲信学会員

他の反創価ブログでも指摘されている事だが、盲信している学会員は現実を見る事ができていない。
創価学会では他の宗教を指して「現実逃避の思想」だとか「他宗教は宣伝している奇跡や功徳が現実には顕れない」などと批判しているが、そう言っている創価学会もまた、その宣伝している現証としての功徳が殆ど見られない。
それは熱心に学会活動している学会員の姿を見れば一目瞭然であり、筆者が学会員だった頃も今も、熱心な活動家であっても家庭内の問題に苦しみ、病気や事故に遭遇し、生活苦に苦しんでいる信者が多い。それは信心していない一般人と全く変わらない。と言うより、信心していない一般人よりも悲惨な目に遭っている信者の方が多いとさえ言える。
創価学会では、「たとえ人生の苦しみに遭遇しても、この信心によって悠々と乗り越える事ができるのだ」とも言っているが、しかし筆者も今まで随分学会員を見てきたが、苦難を悠々と乗り越えていった学会員を見た事がない。学会役職者であっても生活に困ったと言っては知り合いに泣きついたりと、とても悠々と苦難を乗り越えているとは言えない有り様であった。
そのように、実際には学会部外者の友人や知人に助けられているにも関わらず、それは「創価学会で信心したおかげだ」などと言っている始末だ。そして「折伏で人を救っている」などと思い込んでいるが、実際は人から助けられているのが実態なのだが、それに気づいていない盲信者も多いようだ。
このように、盲信学会員は現実を見ていないし、創価学会から夢を見せられているに過ぎないのである。創価学会が宣伝している功徳論はあくまでも夢でしかないのである。


学会員は名誉会長の「対話」を手本にすべし

創価学会では盛んに池田名誉会長が世界の有識者と対談している事を宣伝し、弟子も師に続けとばかりに会員に向かって「さあ、仏法対話しろ」「対話しろ、対話しろ」と駆り立てているが、そもそも名誉会長の対話は学会員の手本にはなっていない。
言うまでもなく、創価学会が会員に求める「仏法対話」あるいは「対話」とは、部外者を創価学会に入会させる為の折伏の事である。学会員は対話によって部外者を学会に入会させる成果を創価学会から求められているのである。
それに対して池田名誉会長がこれまで世界の識者と行なってきた「対話」というのは、「池田式対話法」とでも言えるもので、歯の浮くようなお世辞を言っては相手を持ち上げおだて上げ褒めそやす「ご機嫌伺い」が殆どである。ただ相手を褒め上げているだけでは折伏にならないし、学会に入会させる事もできない。だから、名誉会長がこれまで対話してきた世界の識者で学会に入会した人物は1人もいないのである。当たり前である。
学会員がその名誉会長と同じような対話をしても、誰1人学会に入会させる事ができないのもまた当たり前である。
だから池田名誉会長が行なってきた「対話」は学会員の手本にはならないし、参考にもならないのは言うまでもない。
但し、学会部外者からの視点で言えば、名誉会長が行なってきた「池田式対話法」なら、学会員から褒められお世辞を言われるだけで強引に入会を迫られる事もないから、学会部外者からすれば大歓迎であろう。そういう意味でも、学会員は池田名誉会長の猿マネでいいから、大いに「池田式対話法」で学会部外者と「対話」を行なってもらいたいものである(笑)

理論が通じない盲信学会員

筆者は創価学会を脱会後、知り合いの学会員と宗教観について対話した事があるし、また、インターネットを始めてからは、ネット上でも学会員と非会員との対話を見てきたが、それらを通じて感じる事は、特に盲信学会員には理論が通じないという事だ。
例えば知り合いの学会員と対話した時も、筆者が宗教専門書などで知り得た仏教学の知識を基に、もはや創価学会だけが唯一正しい宗教だとは言えなくなっていると指摘しても、相手は「はあ?」という感じで、まるで聞いたこともない外国語を聞かされたような顔をし、その後は学会教学だけを根拠にしてひたすら創価学会だけが正しいんだと主張するばかりであった。
それはインターネットでも、ブログのコメント欄での学会員と非会員との対話を見ても同じで、最先端の研究によってももはや創価学会が唯一正しいという根拠は崩れてしまっているという質問を突き付けられても、学会員はそういう客観的な根拠は無視して学会教学という主観的根拠だけを振りかざして創価学会だけが正しい宗教だと主張しており、話が噛み合わないし対話になっていない。
創価学会では宗教の正邪の基準として「文証・理証・現証」の三証を掲げているが、創価学会の主張は三証全てで崩れている。それでも盲信学会員は創価学会だけが正しい宗教だと主張し続けているのである。
それはもはや盲信学会員にとっては理論とか論理性とか文献的根拠などというものは関係なしに創価学会を信じているという事であり、更には創価学会をというよりも池田名誉会長を信じているというだけの事なのだ。
だから学会員と宗教論で対話しても、いくら理論を尽くしても無駄でしかないのである。盲信学会員にとっては文献学的に正しいかとか論理的に正しいかなどよりも、「師弟不二論」によって池田名誉会長を信じるという一点だけで創価学会を正しいと思っているのだから、対話にはならないのである。




人間的な成長ができない創価の組織

筆者が学会活動家だった頃、特に男子部などは本部幹部や圏幹部以上の大幹部をカリスマ化して心酔している部員が多かった。そして、テレビの討論番組やワイドショーなどで学者や評論家、あるいは議員などが発言している事について、「〇〇男子部長の頭の切れる指導に比べると、あの連中はアホに見えるよな」などと言って軽蔑していたものだった。
筆者はそこまで学会幹部をカリスマ化するほど心酔していなかったので、「そうかな?」と思ったりしてたものだが、後から思えば、「自分達こそ最高」という思い上がりの極みだったと言える。
男子部員達が心酔していたその大幹部の指導にしても、心に響く言葉とか心に染み入る言葉などというものではなく、結局は活動家をこき使う為の恫喝であったり、活動に駆り立てる為の恩着せがましさであったり嫌みであったりで、要するに学会活動しなければ後ろめたいという罪悪感を植え付けるような言い方で、それを心酔している男子部員達は「すごい指導だ」と思い込んでいるだけでしかなかったのだ。実際は大した事も言ってないのだが、謂わば催眠状態にある男子部員達からすれば、その大幹部は「ものすごく頭が切れる」というように思えたようだ。
以前にも書いたが、結局は「井の中の蛙」で、自分達の組織の中しか見てないから、自分達こそ最高としか思えないし、外の世界については「アホみたいな連中だ」と軽蔑してしまうのである。
このような偏狭な世界でうぬぼれていても、創価学会がよく言うような「人間的な成長」を遂げるのは難しいだろう。


「万代の勝利の基盤築く」のは特権階級限定の話

7月31付聖教新聞に「万代の勝利の基盤築け」という見出しの記事が掲載されていたが、万代の勝利の基盤を築けるのは学会上層部など特権階級だけの話であり、一般の会員には無関係な話である。
一般の会員は、特権階級の生活が万代の勝利の基盤を築けるように働きアリとなって手助けするだけであり、一般の会員が万代の勝利の基盤を築く事はできないようになっている。一般の会員はせいぜい「学会活動の功徳によって素晴らしい生活が待っている」という夢を見せられているだけで、殆どの場合、夢のままで終わる事になるだろう。
学会活動も学会の体制も特権階級を護る為のものでしかなく、一般会員の為のものではないし、ましてや一般大衆・一般庶民の為でもない。学会上層部など特権階級の生活が万代の勝利の基盤となるように築く事が創価学会の目的だからである。

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