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ブログ更新終了のお知らせ

当ブログへのご訪問ありがとうございます。
これまで創価学会に対する批評を書き続けてきましたが、今回でブログの更新を終了する事にいたしました。
池田創価学会が終焉を迎える日までは続ける予定でしたが、書くべき事は書き、言うべき事は言ったという思いがあり、ここで一旦、更新を終了する事にしました。
今まで拙ブログを訪問していただいた皆様、応援していただいた皆様には厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。
特に、クロ様、Kan様、木花様には拙ブログを盛り立てていただき、深く感謝いたしております。誠にありがとうございました。

なお、当ブログはこのまま残す事にし、誤字脱字などがあれば時々修正していこうと思っております。
これからも、創価学会に疑問を持っておられる方々の参考になる事ができれば幸いです。


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創価学会が批判される理由

個人の創価系サイトを見て回っていると、アンチ創価について「アンチは重箱の隅をつつくような批判ばかりしている」とけなしているサイトをよく見かけるが、それは創価学会や盲信・狂信の学会員が「重箱の隅」をつつかれるような事をしているからである。批判をされたくないのなら、批判されるような事をしなければいいのだ。
このような盲信学会員の意見というのは、創価学会のやってる事にいちいち文句を言うなという事であり、創価学会がどんな迷惑行為をしようが、黙っていろという恫喝である。
勿論、アンチ創価の中には創価学会と関わりがないのに、面白半分に批判している者もいるのかも知れないが、多くは創価学会及び盲信狂信学会員から被害に遭ったという人々や、あるいは創価学会の反社会的行為に対して脅威を感じている人々からの批判なのである。そのような批判を真摯に受け止めようともせずに、「いちいち文句を言わずに黙ってろ」というような威圧的な恫喝をする創価学会というのは、言論の自由を封じ込めようとするファシズム的性格を帯びた傲慢な組織体であると言わざるを得ないし、何よりもそれが創価学会の正体なのであろう。
そのような創価学会と盲信学会員が批判されるのは当然である。


池田創価学会が終焉を迎える日

戦後、爆発的な勢いで勢力を拡大し、権力にも喰い込み、その経済力で社会の隅々までも支配する勢いの存在となった創価学会。その原動力となったのは一般大衆なのであるが、その大衆を惹きつけてきたのは池田大作名誉会長であったのは確かだろう。良くも悪くも、池田名誉会長は学会員にとってはどこまでも附いてゆくだけの魅力があったのだろう。特に婦人部の盲信者にとっては教学とか思想の正しさなどはどうでも良くて、ただ池田名誉会長という偶像に心酔し信じて附いて行ってるだけのようだ。極論になるかも知れないが、婦人部の盲信者にとっては学会の教義が法華経信仰や日蓮の教えである必要はなく、真言宗であろうがキリスト教であろうが、もはや関係ないのだと思う。池田名誉会長だから信じて附いて行ってるだけのようだ。
しかし、その名誉会長も高齢となり、今では殆ど姿を現さなくなった。それでも、原稿執筆やメッセージなどでその存在を会員に対して示してはいるのだが、しかし、その手もいつまでも続けられるものではない。これから100年も200年もメッセージなどだけで生きているように見せかける事には限界があるだろう。つまり、池田創価学会にも必ず終焉が来るという事だ。
池田創価学会が終焉を迎える日は、創価学会が崩壊を始める日でもある。池田名誉会長という学会員にとってのカリスマがいなくなる事によって学会組織の求心力は一気に萎んでゆくのではないか。
池田名誉会長に代わる新たな魅力あるカリスマが現れない限り、池田創価学会終焉後、学会崩壊は免れないだろう。




  

創価学会を支える学会員の「鈍感力」

ひと頃「鈍感力」という言葉が流行った事がある。簡単に言うと「気にしない生き方の力」とか「考え過ぎない生き方の力」という事らしいが、創価学会を支えている盲信学会員にもこの「鈍感力」が見受けられる。
個人の創価系ブログを見て回っていると、創価学会への批判に対して反論している記事が目に付くのだが、例えば、「創価学会は金の亡者で、財務でも高額な寄付を信者に強要している」という批判に対しては「私は幹部からそんな事を強要された事はないし、学会の組織の中でも聞いた事もない」とか、「学会員は聖教新聞を1世帯で何部も取らされている」という批判に対しても「私は聖教新聞を複数取っていないし、うちの組織で複数取らされたという人の話なんか聞いた事もない」などと書いているのだが、創価学会の組織の中にいて、しかも活動家として活動しているのなら、上に書いたような事は多かれ少なかれ体験するものであるし、あるいは耳にするものである。
それを体験した事もなく組織内で他の会員から聞いた事もないというのは、とぼけているのか、それとも本当に知らないというのなら、学会活動の現場を体験した事もないかのいずれかでしかないだろう。
そのように、創価学会を擁護する盲信学会員は、学会が批判されている事柄に対してはすごく鈍感なのである。
たとえ自分自身が財務で高額な寄付を強要された事もなく、聖教新聞を複数取らされた事もないといっても、組織内の他の会員の中にはそういう目に遭っている人もいるものなのだが、それに対しては聞いた事もないというのはそれこそ「鈍感力」の為せる業だと言ってよい。そのように鈍感であるからこそ、多くの学会員が創価学会から理不尽な目に遭わされて苦しみ悩んでいるのに、鈍感学会員は「そんな事実はない」などととぼけていられるのだろう。
そのような鈍感力を発揮している学会員がいるから創価学会は安泰でいられる訳だ。
まさに盲信学会員の鈍感力によって創価学会は支えられていると言えるようだ。



学会員が夢見る広宣流布の幻想

創価学会は、広宣流布を達成すれば世界は平和になり、万民が平等な幸福世界が実現すると宣伝している。
創価学会の公式サイト「SOKAnet」ではその説明として、広宣流布とは日蓮の教えを世界に流布する事で万人を仏の境涯に導く事であるとし、それによって立正安国が実現するのだと主張している。立正安国とは、正法を信受する事により社会の平和・繁栄と人々の生活の安穏を実現する事であり、それを実践しているのが創価学会なのだと主張している。
学会員もそれを夢見て学会活動に励んでいるのだが、しかし、実際に創価学会が広宣流布を達成するのは不可能だ。たとえ仮に達成できたとしても、創価学会が主張しているような理想社会など実現不可能である。
これまで当ブログに書いてきたように、創価学会の組織は本部職員など特権階級だけが安穏な地位と生活を享受でき、一般会員は活動に動員され搾取されるという二極化した格差組織・差別構造となっている。一般会員は特権階級を支える為の労働階級及び実動階級でしかないのである。広宣流布を達成できたとしても、一般会員は特権階級を支える為にいつまでも学会活動を続けなければならず安穏な生活・安穏な人生はあり得ないのだ。
北朝鮮では最も過酷で悲惨な目に遭わされているのは北朝鮮社会の底辺に位置する一般大衆・一般人民であるが、創価学会でも同じく、最も過酷で悲惨な目に遭わされるのは一般の学会員なのである。熱心な学会員が一生懸命に学会活動していても、それは謂わば自分の首を絞める為の活動でしかないのだ。中には広宣流布の暁には自分が支配する側の立場になる事を夢見ている学会員もいるようだが(筆者が学会員だった頃、地区幹部にそういう事を夢見ていた人間がいた)、あいにくと、一般会員は支配される側であり、抑圧される側になってしまうだろう。
9月6日付聖教新聞第1面に全国総県長会議が開催されたという記事が掲載されていて、11月18日の創価学会創立記念日に向けて「新時代の創価城を築け」との大見出しを掲げていたが、「創価城を築け」という号令は総県長を含めた特権階級に向けた号令と見た方がよい。特権階級が一般の会員と社会を支配する為の「創価城を築け」という号令なのであり、あくまでも特権階級の為の「創価城」なのだ。一般会員はその創価城の最下位に位置づけられ、権力者から支配される立場でしかないのである。
広宣流布とか立正安国とか理想的なきれい事を主張していても、結局は創価学会が権力を手に入れて社会を支配する事が目的なのであり、所詮一般会員は搾取され利用される対象でしかないのだ。
それなのに、広宣流布を目指して学会活動に励んでいる盲信学会員は実におめでたくも哀れな存在だと言わざるを得ない。




天地の差ほどもかけ離れている創価学会の理想と現実

これまで何度も当ブログに書いてきた事だが、創価学会ほど宣伝している内容と現実の実態が天地の差ほども大きくかけ離れている宗教はない。
聖教新聞や創価学会公式サイトなどには学会員は皆信心の功徳に溢れ、笑顔で喜びの人生を謳歌しているかのように宣伝しているが、現実は自己を犠牲にして過酷な学会活動に駆けずり回っても功徳らしい功徳もなく、悲惨な人生に苦しんでいる学会員が殆どである。
筆者の親類にも学会員が何世帯か居て、今まで当ブログの記事にも書いたようにどこも功徳の姿が見られず悲惨な状況だ。それ以外にも筆者の遠い親戚に当たる学会員の親類は、自宅を拠点会場に提供して熱心に学会活動してきたそうなのだが、経営していた養鶏業が思わしくなくなり、生活費稼ぎの為にアルバイトに行った建設現場の高所から転落して亡くなってしまったという。その親類に限らず、学会員には功徳の話よりもそういう悲惨な話の方がよほど多い。
そのような学会員の現実を知っている側から見れば、聖教新聞などにある学会員全員が信心の喜びと功徳の歓喜に溢れているかのような、あるいは不幸な信者は1人もいないかのような現実とはかけ離れた記事を見ると、そのあまりの誇大広告の宣伝を垂れ流している厚顔さには呆れるばかりである。
現実に「功徳」を享受しているのは信者を支配して搾取している特権階級と、学会員の現実を知る事もなく創価学会を絶賛し擁護してはその恩恵に浴している文化人・識者くらいのものだ。
ここにも創価学会の差別主義がはっきり如実に現われているのである。


大文化運動=創価学会の金儲け

筆者が学会員だった頃、「創価学会の活動は信仰だけでなく、教育・芸術・平和活動などを含めた大文化運動である」と幹部が得々と語っていたものだった。
つまりそれはあらゆる分野に創価学会が入り込んで事業を展開していくという事なのであり、言い換えれば、創価学会の金儲けという事である。
大文化運動などといかにも高尚らしい言葉を使っていても、詰まる所創価学会の金儲けの事なのであり、その手駒として使われるのが一般の学会員なのである。
実際、創価学会は核の部分の宗教としては折伏による勢力拡大に信者を駆り立て、政治においては公明党の票集めに信者を動員し、芸術・芸能部門の民音では信者にチケットを売りさばき、出版事業でも信者に本を売りさばいている。
そして、更に創価学会の社会的な認知度と好感度を上げる為、出版事業においては、著名な識者・文化人や芸能人らを高額な原稿料で執筆依頼して言論界での批判を封じると共に社会的認知度を上げ、芸能界においては学会員の芸能人を拡大する事で世間での好感度を上げようとしている。
また、新聞・テレビ・ラジオなどに広告やCMを出す事でマスメディアの支配を進めている。
それらは結局、大文化運動などと言っていても創価学会の事業展開の一環であり、金儲けが目的なのである。その為にあらゆる分野を支配しようとしているのである。
それを純粋な文化運動などと思い込んでいる学会員などは、都合よく使われるカモでしかない。
得をするのは互いに利用し合っている創価学会とマスメディアや文化人などであり、「学会活動は大文化運動だ」と誇らしげに自慢している学会員が最も損な役回りという訳だ。そこに気が付かないとは哀れであるし滑稽でもある。



創価学会が目指す差別社会

これまでも書いてきたように、創価学会は社会的地位の低い一般大衆に対しては人権を無視した扱いをし、社会的地位の高い識者・文化人に対しては礼を尽くして厚遇するという差別的な戦略を行なってきた。
一般大衆を信者に付けて奴隷化し手駒としてこき使い、著名な文化人からは称賛を得て社会的評価を上げるというのが創価学会が目指している組織運営なのである。

創価学会がいかにして識者・文化人を手なづけているかという記事が次のサイトに書かれてある。関心のある方は参考にしていただきたい⇒ FORUM21

以前に梅原猛氏が創価学会批判の著書を出したが、その後、学会系雑誌に寄稿するようになってからは学会批判をしなくなったという記事を書いたが、それについて、学会部外者運営と思われるあるブログでは、創価学会を批判していた梅原猛氏はその後創価学会から助けられたからそれ以後学会批判をしなくなったのだと書いていて、「自分を批判している、いわば敵である梅原猛にもあたたかい手を差し伸べる創価学会もなかなか大した団体だな」と結んでいるのだが、それが創価学会の戦略だからだ。学会は梅原氏に温かい手を差し伸べたのではなく、「利用価値あり」と見て利用しただけの話なのである。
創価学会は利用価値のある者にしか手を差し伸べない。一般の学会員に対してはタダでこき使い搾り取り、それで学会員が生活に困っても助けてくれる事はない。「信心が足りない」の一言で終わりである。創価学会というのは利用価値のない相手には非情な組織なのだ。だから、創価学会に全てを捧げて生活に困った学会員は周囲に迷惑を掛けたり犯罪に走ったりするのである。
筆者の母方の叔母一家も学会員なのだが、随分前に自己破産してしまい、それ以来音信不通でどこに住んでいるのか行方が判らないのだそうだ。自己破産する前には親戚を借金して回り、結局借金を返さないまま自己破産して行方不明になったのだという。筆者の実家には借金に来なかったそうだが、他の親戚は迷惑を被っているそうだ。
叔母一家も創価学会から見放されてしまったのだろう。創価学会は一般の会員を助けてはくれないのだ。
叔母一家に限らず、創価学会に尽くしたのに生活が困窮すると学会から見放され、身近な知人に頼っては迷惑掛けている学会活動家を何人も見てきたが、それほど創価学会は、相手が社会的地位が高いか低いかで態度が180度も違うのである。
結局、創価学会から良くしてもらっていると思い込んでいる文化人達は、学会の実態が全く判っていないか、一般大衆の事など眼中にないかのどちらかなのだろう。
このような創価学会が支配する社会が拡大すれば、弱者はますます見放され、社会的地位の高い者だけが優遇されるという二極化した社会となってしまうだろう。
創価学会が目指している理想社会とは、利用価値があるかないかで二極化した差別社会なのである。



哲学の立場からの創価学会批判

世に創価学会批判は多いが、哲学の立場からの創価学会批判もあるようだ。創価学会の教学を哲学の立場から批判しているのは哲学者の梅原猛氏で、『美と宗教の発見』 (ちくま学芸文庫・2002年度刊)という著書の中で論じているものである。
なお、梅原氏はこの著書を刊行後、創価学会の雑誌に原稿執筆をするようになった為、これ以後創価学会を批判する事がなくなってしまったのが残念である。文化人に高額の原稿料を払って執筆依頼をし、批判を封じ込めるというのは創価学会の得意の戦略であり、梅原氏もその仕掛けに掛かってしまった形であり、それが残念である。
それでも、この著書は創価学会の教学を哲学の立場から批判するという試みが為された稀な書であり、価値ある内容の批判書であると思う。

その梅原氏の著書を紹介しているサイトから勝手ながら引用させていただく。
(参考サイト⇒ http://rodori.hatenablog.com/entry/2013/05/24/230756 )


[ 引用ここから ]

梅原によれば、創価学会の思想には二つの大きな源流があります。

1.新カント派の価値論
2.日蓮の生命論

初代会長の牧口常三郎によって持ち込まれたのが1、二代目会長の戸田城聖によって持ち込まれのが2です。本書の前半では1が、後半では2が、それぞれ批判的に論じられています。

今日「創価学会」と言えば2の要素を私たちはイメージしがちです。しかし、そもそも「創価」とは「価値の創造」のことです。そのことを踏まえると、2に負けず劣らず1の要素が重要なものあることがわかります。

「真理」はあくまでも認識の対象であって評価の対象ではないと考えた牧口は、「真・善・美」を説いた新カント派の価値論から「真」を追放しました。そして、「真」の代わりに「利」を導入し、「利・善・美」の価値論を彼は説きました。
追放された「真理」はどこに行ってしまったのでしょうか?価値-評価作用の領域から切り離され、排除された「真理」は、認識作用の領域にすっぽりおさまることになりました。

真理 - 認識作用の領域
価値 - 評価作用の領域

梅原が批判するのはまさにこの二元論です。その成立の当初において「真理」を価値論の領域から排除してしまった創価学会は、自分たちが説く教説の当否を判断する自己批判の精神を失ってしまっている。創価学会がいまだに天台智顗の五時八教の教えや釈迦の入滅についての日蓮の教えのように現代の文献学からすれば非科学的でしかない教えに固執しているのは自己批判の精神が無いからだと梅原は手厳しく批判しています。


[ 引用ここまで ]

未だに天台の五時教判説を錦の御旗に振りかざして「我々こそ最高に正しい」と主張している創価学会の旧態依然とした体質を批判し、その原因を創価学会の自己批判の精神の欠如と見なしている梅原氏の指摘は的を射ている。
創価学会は「我々こそ最高に正しい」と誇示しながら、その主張の内容は科学的検証に耐えないものでしかない。
勿論、信仰というのは科学的に立証される必要はないが、それならば「世界最高に正しい」とか「唯一正しい」などという悪質商法のような過大な表現や「入信しなければ地獄に堕ちる」などと脅したりするべきではないだろう。どのような信仰でも自由だとは言っても、創価学会の折伏のような信仰の押し売りをするからには、科学的にも検証され得るものでなければ「唯一正しい」などとは言うべきではない。



創価学会は「蔵の財第一なり」

「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」
創価学会では信者を指導する際にこの御書の一節をよく引用する事が多い。そして蔵の財としての物質的な財産・資産よりも身の財としての健康・能力・社会的地位よりも心の財としての心の豊かさや福徳が最も優れているのだと強調しているのだが、創価学会がそんな事を指導しても全く説得力がない。何しろ創価学会こそが「心の財」をないがしろにして「蔵の財」に執着しているからだ。
創価学会の金集め体質はつとに有名であり、宗教の名を騙った悪質企業である事も世間に知れ渡っている。
今年も今の時期、学会員の家には財務の申込用紙が届けられていると思うが、末端の平会員ならまだ良いのだが、役職者となるとそれが義務であるかのように、あるいは高額な寄付をするのが当たり前のように暗に強要される。そして財務の振込期間になると幹部がしつこく振り込みの確認をしてくる。
それほどに創価学会は金に執着しているのであり、まさに創価学会は「蔵の財第一なり」なのである。
いくら口先ではきれい事を言っていても、その実態は「金の亡者」だと言ってよい。



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