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不要なゴミは捨て去るべき

創価学会擁護派の評論家や学者は勿論の事、中立派の評論家や学者も、創価学会の功罪の功の面として、戦後の復興期において社会の底辺に属する大衆を組織化し、上昇志向と生きる希望を与え、社会の安定に寄与したという点を挙げて創価学会を評価しているが、確かに、創価学会にも功罪の両面があり、その功の面も評価すべきだという事は否定はしない。
創価学会は功の部分よりも罪の面が大きいという事実があるにしても、評論家などが言うような功の部分があるのも確かかも知れない。つまり、創価学会は有害な面があるにしても戦後の復興期という時代には必要な存在であったと言う事はできるかも知れない。
そのように100歩譲って創価学会にも功の面があり、社会に必要な存在であったと認めるとしても、だからと言って、今も創価学会が社会に必要な存在だと言う事にはならない。
創価学会が必要とされた、あるいは創価学会に存在意義があったというのは、戦後復興期という時代背景があったからである。当時の学会員には創価学会という存在が必要だったのだろう。創価学会での信心と活動が生きる上での原動力となっていたのだろう。100歩譲ってそれは認めても良いだろう。
しかし、当時の日本には創価学会が必要だったからといって今も必要だという事にはならない。今は当時とは時代も違い、社会も変化している。このように時代の違いによって変化している社会にそのまま創価学会が必要になる事はなく、むしろ現在の社会において創価学会はその存在意義もなくなっていると見るのが正しい。
つまり、創価学会に功罪の両面を認めるにしても、創価学会の功の面は戦後復興期から高度経済成長期までの間だけであり、その時期にだけ創価学会の存在意義があったと言うべきだ。現在においては創価学会には功の面はなく、全て罪の面しかないのであり、必要ないものなのである。それなのに、未だに創価学会にこだわり、創価学会を捨てられないで、却ってその創価学会によって苦しみ悩んでいる学会員がまだ多く存在している。今の社会に必要ないものだからこそ、それにこだわり続ける事によって苦しみしか得られないのである。
そのような学会員は、釈尊の『筏の譬え』という教えにもあるように、不要になったものは捨て去るべきなのだ。
当時の学会員は創価学会のおかげで救われたと思っているが、現在、その創価学会に苦しめられているのが現状である。謂わば、学会員は河を渡った後も、創価学会という筏を背中に担いで岩山の険しい道を歩いているようなものなのだ。そんなゴミはさっさと捨てれば楽になるのに、わざわざゴミを背負って苦しんでいるようなものなのだ。
当時の学会員にとって創価学会の信心は必要だったのかも知れない。しかし、その後は創価学会はもはやゴミでしかないのである。そこに未だに気づかないようである。気づかないというよりも、薄々ながら気づいているのかも知れないが、これまで人生の全てを創価学会に捧げてきたような生き方をしてきただけに、創価学会の信心を捨てるのはこれまでの自分の人生を否定するような気がして、なかなか捨てきれないでいるのだろう。
しかし、もはや創価学会は河を渡った後の筏と同じく不要な存在でしかないのである。そのようなゴミとしての創価学会を後生大事に背負っていても幸福になる事はない。それは多くの学会員を見れば判る事である。



『筏の譬え』の参考サイトURL

● http://aroma.mo-blog.jp/incense/2012/01/post_b658.html


● http://teishoin.sakura.ne.jp/i/47.html


● http://www.ko-kon.net/kokoro/shinjin/shinkou_gimon03.html


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