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法華の慢は許されない

久しぶりに思想面・教学面の批評を書いておきたい。
創価学会がよく使う言葉に「法華の慢は許される」というものがある。仏法では慢心を戒めているが、法華経は最高の法なのだから、法華経信仰者の慢心は許されるのだという論法であり、正しい慢心なのだからドンドン慢心して良いのだという主張なのである。
しかし、その根拠となっている文証は何かというと、明確な文証がない。日蓮の言葉にも、法華経にも「法華の慢は許される」という明確な言葉はない。例によって「仏法は勝負なり」というキャッチフレーズと同様、創価学会の拡大解釈による創価学会の造語であり、創価学会用語でしかないのである。
創価学会では「法華の慢は許される」という言葉の根拠として、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「能(よ)く是(こ)の経典を受持すること有らん者も亦復(ま)た是(かく)の如く、一切衆生の中に於(お)いて、亦(ま)た為(こ)れ第一なり」と「一切の諸の経法の中に於いて、最も為れ第一なり。(中略)諸経の中の王なり」の文を文証として引き、更に日蓮の言葉として、「現に勝(すぐ)れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか」と「問うて曰く自讃は如何、答えて曰く喜び身に余るが故に堪え難くして自讃するなり」という文を文証として掲げているが、これらの文章は、要するに「法華経は最高に勝れた法なのだから、その法華経を受持している者も勝れているのだ」「勝れた法を受持した喜びのあまりに自讃するのだ」と言っているに過ぎないのであり、これは謂わば状況証拠のようなものであって、「法華の慢は許される」という事への明確な根拠にも文証にもなっていない。
そもそも、法華経が最高に勝れた法だという前提は、創価学会や法華経系の教団が主張しているだけであって、仏教学の面においても歴史的に見ても認定されているものではないし、仏教界全体としても認められているものではない。「法華経が最高の法だ」という前提そのものがそもそもから前提になっていないのである。そのようなものを「最高に勝れた法だから、この法を受持すれば慢心を起こしてもそれは正しい慢心なのだから許されるのだ」という論理は論理として成り立たないのは言うまでもない。
「法華経こそ最高の法だ」と勝手に言ってる者が慢心を起こして許される訳もない。その論理は創価学会、あるいは法華経系の教団の内部では通用しても、外部に対しては通じる論理ではない。
いずれにしても、創価学会の傲慢さと独善性は、この「法華の慢は許される」という言葉が基になっているのだろう。いかにも「我々は何をやっても正しいから許されるのだ」とうそぶく創価学会らしい理屈付けではあるだろう。



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